イザヤ書66章1~2節
ペテロの手紙一3章13~15節
心の中でキリストを主とあがめなさい(Ⅰペトロ三・一五)とあります。今日はこの御言葉を中心に修養会も思い起こしつつ説教したい。心の中で。何故わざわざ心の中でと言うのかというと、当時は迫害や蔑視があって、一四節の義のために苦しみを受けるのであれば幸いの文章に続いているのがヒントです。キリスト教徒の信仰が否定される迫害や蔑視の中で社会的には外なる人が衰えていくとしても、心の中では信仰を固く保って内なる人は日々新たにされて(Ⅱコリント四・一六)いくからです。だから心の中でと言います。
そして、キリストを主とあがめなさい。あがめるというのは、もとは聖とする、特別のものとして取って置くということです。
先週の礼拝説教で小林牧師が以下のようなことを仰いました。初めて教会に来た時、病が治るようにとか、死後天国に行けるようにとか、状況の変化を求めた人は多いだろう。けれども、礼拝者になろうと思って来た人はどの位いるだろうか。いないだろう。でも私たちは神との関係において今や礼拝者になった。関係の変化が起こった。教会は二千年間、礼拝者を生み出してきた。これが教会の奇跡だ、と。礼拝者になる、それはキリストを主とあがめる者となることです。私たちも礼拝者になって、教会の奇跡の中に生かされている。
午後の修養会の講演では、使徒言行録九章のパウロの回心の記事から、パウロはキリストの御言葉を聴き受けとめることに於いてキリストの臨在に触れた、私たちも礼拝において同じであると語られました。キリストを主とあがめることに於いて私たちは、臨在のキリストに出会います。臨在については次週改めて触れます。
私たちは毎日、主の祈りを祈ります。父なる神様への呼びかけに続いて、御名をあがめさせ給えと唱えます。「神を」ではなく「御名を」あがめさせ給えと祈るのは何故か。それは、およそ神なら何であれと漠然と神を考えてはいけないからです。イエス・キリストの御名のある神です。
私たちにも名前があります。それは、名前がないと呼ぶのに困るからだけではありません。それ以上です。例えば、森田恭一郎の名前を聞いたら、それだけで皆さんは私の顔や声を思い起こします。私の人柄、性格、欠点を思い起こします。私の事をもっと知っている人なら、その歩んできた人生や家族関係も思い起こします。ただ客観的にというだけでなく、自分と森田恭一郎との関係も思い起こします。あの人とは二度と会いたくない、と名前を聞いただけで瞬時に思う人もいるかもしれません。
いつも礼拝説教の要約を一週間遅れで印刷しています。今日も先週の小林牧師の説教をOさんが要約されてそれを印刷しました。当然小林眞牧師の名前、いつもなら私の名前が載っている。説教内容が解るためには名前が無くても、目的は達成されるのですが、やはり名前はあった方がいいと皆さん仰います。読む側としては、名前があった方が、説教者の顔を思い浮かべ、語り口調と合わせながら読める。
もっとも説教者としては、説教者が自己主張するのではなく、キリストの御名があがめられるようにと説教しなければなりません。だから説教者によっては黒のネクタイをして説教の任にあたります。説教壇で自分を隠し殺すのです。神の御名こそがあがめられねばならない。一方で、白のネクタイをする牧師もいます。礼拝は復活の主をあがめる祝いの礼拝だからです。余談ですが、それで私が伝道師として赴任するにあたってどうしようかと考えて、グレーのネクタイにしました。今はネクタイはしていません。
話を戻しますが、プロテスタント教会での説教は、読まれる聖書個所も含めて、牧師の個性が出る。これはやむを得ないことだと思います。むしろ、その説教者が聖書から感動した出来事が説教と共に伝わって来ることが必要でしょう。
また手紙、差し出し人として森田恭一郎と名前があれば、その顔や人格を思いながら、手紙を読みます。それが匿名の手紙ならどうなるでしょう。大体、匿名の手紙は文句を言ってくる場合が多い。不信感を与えるし、責任を以て読む必要はない。名前というのはそういうものです。
そう考えますと、お名前のない神様では思い起こしようがないし無責任な神様になります。また思い起こせない神様を、ちゃんとあがめることは出来ませんから責任を以て関わる必要もない…。
責任を以てというのは、心からの感謝と献身の思いを以てあがめるということです。
幸い、私たちはイエス・キリストの御名をあがめることが出来ます。その御名を聴くだけで、福音書でのお姿を思い浮かべます。諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え罪の赦しと救いを宣言し、病気や患いを癒して下さった主イエスのお姿、十字架におかかりになり罪を贖い、甦られ人々に現れ顕現し罪の赦しと復活の希望を与え、今は神の右の座に在って私たちを執成しておられるキリストを思い起こします。それは私のために十字架にお掛りになり甦られたキリストです。私たち一人ひとりを、ご自身との関わりの中に招き給うキリストです。確かに私たちの救い主であられると確信することが出来る。その神様をその御名によって思い起こし、そしてキリストを主とあがめます。
御名をあがめさせ給え。それは過去におられたキリストではなく、今、臨在したもうキリスト、そのキリストを主とあがめる。これが主の祈りの願いのいちばん最初に祈る内容です。キリストの御名が礼拝されますように、ということです。
もし、私たちが主の祈りではない自分自身の祈りを祈るとしたら、いちばん初めに何を願うだろうか。キリストを礼拝させて下さいと願う祈りをささげるだろうか。日用の糧を求めたり、試みに遭わせないで下さいと、これらを初めに祈ることの方が多いのではないか。
もし、自分の人生に於いて一見どれだけ日用の糧が豊かであっても、私たちが御名をあがめることがないとしたら、どれ程人生が空しくなることだろうか。私たちはそのことを認識している…。でも、キリストを主とあがめることが、自分の人生や日々の生活で何故か吹っ飛んでしまっている。だから「祈るときにはこう言いなさい」(ルカ一一・二)と主の祈りを教えて戴いたのは、本当に幸いです。さすが主の祈り。礼拝することを一番目に祈る。状況の変化より神様との関係を求める。
そのことは、主イエスご自身が祈られました。父よ、御名の栄光を現わして下さい(ヨハネ一二・一七)。主の祈りの一番目の願いは、父なる神の栄光をたたえる祈りであることが分かります。けれども主イエスは、こうも祈られました。聖なる父よ、私に与えて下さった御名によって彼らを守って下さい。私たちのように彼らも一つとなるためです(ヨハネ一七・一一)。この主の祈りは私たちのための祈りでもあります。そして私たちの名前も場所が与えられる。あなた方の名が天に書き記されていることを喜びなさい(ルカ一〇・二〇)。使徒ペトロたちも誇らしげにキリストの御名を語りました。私たちが救われるべき名は、天下にこの名の他、人間には与えられないのです(使徒言行録四・一二)。そして私たちは礼拝者とされる。
キリストの御名をあがめる。そのキリストを主としてあがめる。そこに教会が新たに建ち上がり、礼拝する心も日々建ち上がっていきます。