日本キリスト教団河内長野教会

メニュー

kawachinagano-church, since 1905.

説教集

SERMONS

2017年6月18日 説教:森田恭一郎牧師

「確かに未来はある」

箴言23章17~18節
テサロニケの信徒への手紙一4章15節~18節
今日の説教題を「確かに未来はある」と致しました。これは箴言の聖句であり、また近年、清教学園の標語として用いられたそうであります。成る程、生徒たちが「これから自分はどうなるんだろう、何をしたいのだろう」と、青春時代に思い悩むその若い日々に「確かに未来はある」とこの聖句を心に刻むことはとても有意義です。それならばそれは、若くはない大人、もっと大人の人にとっては大した意義はもうないのでしょうか。だってもう、あの伝道の書、コヘレト書の言葉ではありませんが「『年を重ねることに喜びはない』と言う年齢にならない内に青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」。年を重ねてしまった人にとって「確かに未来はある」はただうつろに響くだけなのでしょうか。
もちろんそうではない。今日のテサロニケ書の言葉は、終末のイメージを文学的表現で語っている所ですが、そこで私たちが一番聴き取るべき事柄は、救い主キリストは再びお出でになる。私たちの人生は、この地上の人生で終わってしまうのではない。まして地獄に落とされるというようなことでもない。救い主キリストが迎えに来て下さるということです。つまり私たち若くない全ての者にとっても希望と共に「確かに未来はある」ということです。
当時のテサロニケの信徒たちはある不安、心配事を抱えていたようです。13節「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たない他の人々のように嘆き悲しまないために、是非次のことを知っておいて欲しい」。救い主キリストが再びお出でになる前に亡くなってしまった人たちは、陰府に行ってしまったままキリストにお会い出来なくなるのではないか、という不安・心配であります。
もちろん親しい者に先立たれる別れ=死別は、誰にとっても悲しいものです。でもパウロは、「希望を持たない他の人々のように嘆き悲しまない」ようにと言う。悲しい。悲しんでいい。けれども、希望を持つ中で地上の別れを悲しもう、ということです。その喜望とは何かと言えば、14節です。「イエスが死んで復活されたと、私たちは信じています」。この信じている事柄がある。主イエスは甦られた。ここに希望の根拠がある。そして更に「神は、同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出して下さいます」。これは希望だ。私たちの復活は、私たちのことですが、しかし私たち自身に根拠があるのではなくて、キリストに根拠がある。ここに希望の確かさがある。
そして15節途中から「主が来られる日まで生き残る私たちが、眠りについた人たちより先になることは決してありません」。先に亡くなられた人たちのことを置き去りにするようにして、自分たちだけが甦らされるということはない。みんな、キリストの下にいることになるのだ、とパウロは、ここに確かに希望があり、心配しなくてもよい、と慰めるようにして励ましている訳です。

そして16~17節途中までの言葉、私たちはこれをどう読んだらよいのか。「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから私たち生き残っている者たちが、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます」。ここに記されている事が文字通りそのままに起こると信じる必要はありません。当時に至るまで流布していた黙示文学の表現で、旧約聖書で言えばダニエル書とか、外典でいえばエノク書など、基になる表現があるようです。むしろパウロがここで言いたいことは、ラッパが響くかどうかというようなことではなくて「主御自身が天から降って来られる」ということでしょう。
むしろ聖書の中に一見矛盾する言葉があって、個々の言葉を鵜呑みにするよりも相互を突き合わせて言おうとすることを捉えることが大事です。例えば、今日のテサロニケの箇所で言えば、主が再びお出でになって、私たちが主とお会いできるのは、ラッパが鳴り響くまで、まだ時間的猶予があることを前提にしています。もっとも当時は、彼らが生きている間にすぐ主がおいでになるとキリスト教徒の中では一般に信じられていたようです。それだけに、それ以前に亡くなってしまったら主にお目にかかれるのか、ということが心配になった訳です。生きている間に短期間に「主御自身が天から降って来られる」かどうかはともかく、それまでの間に猶予があるという事です。
それに対して、ルカ福音書23章43節では、主イエスが十字架に付けられた犯罪人の一人にこう言います。「あなたは今日、私と一緒に楽園にいる」。それは正に今日であって、時間的猶予はない。今日、お目にかかって一緒にいることが出来る。そこは楽園なのです。時間的猶予があるのかないのか、どっちが本当かという議論は、意味がない。恐らく、振り子の付け根=要の部分と、振り子の部分の違いで、両立するのでしょう。振り子と言っても行ったり来たりはしません。時間ですから、過去→現在→将来と一方通行です。私たちは地上で、振り子の部分を過去→現在→将来へと生きています。振り子の最初の天地創造から始まり、振り子の振り切った一番最後の時点で主がおいでになる。
でも一方、振り子の要の部分は、過去であっても現在であっても将来であっても、同じ所にある。神さまからご覧になれば、天地創造も現在も主のお出でになるのも同じです。いずれラッパが鳴るというのも、今日楽園にいるというのも、神さまからご覧になれば両立する。詩編やペトロ書で、一年は千年のようであり、
主の再臨と同時にここで大事なのは、私たちがみんな一緒に「引き上げられる」ということです。この「引き上げられる」という訳はとても柔らかい訳し方をしています。マタイ12・29では「まず強い人を縛り上げなければ、そうしてその家に押し入って、家事道具を奪い取ることが出来るだろうか」の奪い取るという言葉です。不条理の満ちる地上の歴史、私たち自身はここから抜け出ることは出来ない。その私たちを奪い取るようにしてグイッと天の世界へと引き上げて下さる。
そしてこれを「空中で主と出会う」と表現しています。つまり空中では私たち自身の力では立ちようがない。大地に足を据えて、などと言いますが、空中ですから、立ちようがない。全くの不安定です。そこを全く上からの力によって引き上げ支える。上からの力によってのみ可能な救いの出来事です。そこでは私たちの地上での功績も能力も役立ったない。そこに立つことが出来ない。必要もない。
「空中で主と出会う」。この訳では、私たちから出会うために空中に行って主と出会うみたいですが、私たちは引き上げられるだけですし、直訳すると主の出会いに向かって、主の出迎えに向かってという表現です。この出迎えという言葉は、マタイ25・6(p.49)では、「花婿だ。迎えに出なさい」という所で用いられています。
マタイ福音書の背景にはユダヤ人社会があると言われていますが、彼らが信じていた救い主の到来、世の終わりに来ると彼らは信じていました。その救い主、主イエスががせっかく来られたのに彼らは信じない、迎えに出ようとしない、その背景がある譬え話です。地上の歴史の中に在っては、この地上に来られた主イエスを迎え出る、これが信仰です。出迎え損ねた彼ら、譬え話では愚かな処女たちは婚宴の席に入れてもらえない、裁かれる訳ですが、その裁きを主イエス・キリストは十字架で負う。この譬え話は、賢い乙女たちは救われて愚かな処女たちは裁かれる。だから賢い者として生きましょう、という話ではない。26章1節と2節を見ますと、25章までの一連の話をし終えて、受難予告を為さる。受難の意味、主の十字架の意味を説明しているのです。この譬えに出てくる裁きを主イエスが代わりに負うことなのだと表現している訳です。
テサロニケに在っては、終末に在っては、主イエスの再臨ですから、私たちが迎えに出て行くというより、主イエスの方が私たちの所に迎えに来て下さって、私たちをグイッと引き上げて下さる。私たちの側の功績も能力も要らない。ただ、主イエスの憐れみと恵みによってのみ主がグイッ引き上げて下さる。
そして16節後半「このようにして、私たちはいつまでも主と共にいることになります」となる。この主が共にいて下さるという恵みの出来事は、主イエスの十字架の出来事によるものです。主イエスの贖罪あって起こることです。ただ優しいイエス様がいて下さるというのとは訳が違う。
先日、こういう文章を読みました。小泉健先生の若者への講演の中の文章です。「信仰の課題の一つは、贖罪信仰が弱いという事です。神を信じてはいるのですが、その神は「いつも共にいて下さる方」「私の存在と人生を肯定して下さる方」「私を守り導いて下さる方」「私を助け、成功へと至らせて下さる方」であっても、「私のために死んで、私の罪を贖って下さった方」ではないのです。創造の神であっても、贖い主であるイエス・キリストではないのです」。
この17節の言葉も、キリストの十字架あって出来事となるのです。それが無かったら、恐らく私たちも婚宴の席の中に入れてもらえない愚かな処女たちのままであったはずです。
でもそうではない。キリストの再臨は祝福の出来事であります。