日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2022年10月2日 説教:森田恭一郎牧師

「異邦人の神でもある」

ヨナ書 四・一一~一二
ローマ 三・二九~三〇

今日は、教会の一致、世界の一致について思いを馳せたいと思います。

まず教会の一致。今日、十月第一主日は世界聖餐日です。私たちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血に与ることではないか。私たちが裂くパンは、キリストの体に与ることではないか。パンは一つだから、私たちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです(Ⅰコリント一〇・一六~)。教会の一致の根拠は、信じる神が唯一の同じ神であること、我らはキリストによって救われていることにあります。

 

でも、世界のキリスト教会、更にはプロテスタント教会同士でさえ一致できない点があります。それは聖餐理解です。このパンと杯にどういう仕方でキリストがおられるのか、キリストの血に与る、キリストの体に与るとことの理解です。「これは私の体である、契約の血である」とキリストが宣言されるとき、一つ目の理解は、パンと杯のワインの本質(実体)がキリストの体、血そのものに変化する。二つ目は、キリストがパンとワインの中に臨在なさる。三つ目は、聖霊の導きのもとパンと杯と共にキリストが臨在なさる、四つ目は、信仰を以てキリストを思い起こすことに聖餐の意味がある……。各々の理解があり各々譲れない。それ程に、健全なキリスト教会は聖餐の意味を厳密に理解して大切に受け取っている、と言えます。聖餐は主イエスご自身が制定下さったキリスト教独自のものでそこには深い意味があるからです。それを受けとめて信仰を以て聖餐に与ります。ですから、キリストを信じることなく洗礼を受けないまま聖餐に与るようなことはしません。

諸教会の聖餐の理解の一致が容易ではないその上で、世界聖餐日は、キリスト教会が宗派、教派を越えて一つであることを願い定められました。

 

さて、今日のローマ書は以下のように記します。神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです(ローマ三・二九~)、すなわち、神は(ユダヤ人から見れば異邦人=外国人も含めた)全世界の人々の神であり、割礼のある者(=ユダヤ人)を信仰の故に義とし、割礼のない者(=異邦人)をも信仰によって義として下さるのですと。割礼を受けたユダヤ教徒のユダヤ人も信仰の故に、そして割礼を受けていない異邦人も信仰によって(信仰を通して)、神は義として下さる。私たちは、キリストの贖罪の恵みによって義とされ、義とされた恵みを信仰を通して受け取り、地上の生活を信仰によって歩みます。義とするというのは、神が私たちのことを「お前はいい奴だ」と言って下さることです。謝罪を求めず、罪を赦すことに留まらず、和解して義として下さる。神が御自分と私たちの間に平和をもたらしておられる。これは神様からご覧になれば、キリストの贖罪の故に世界中の全ての人に有効。私たちの側から言えば、これは信仰を通して認識し受け止める事が出来る。

今日は、世界宣教の日でもあります。かつて、そして今も、宣教師が来日し日本にも福音をもたらしてくれた。今は日本基督教団からも宣教師が諸外国(現在十一カ国)に派遣されています。それは、神様が外国の異邦人の神様でもあるからです。

 

世界宣教の根拠となる聖書箇所をもう一つ。

それはヨナ書です。その終わりの所で、神様が異邦人であるニネベの人たちの事をこうお語りになりました。主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうして私が、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから」(ヨナ四・一〇~)。これは、自分たちが救われるのは自分たちだけだと選民意識を強烈に持っていたユダヤ人に対しての、それ以上に強烈な批判でもあり、ユダヤ人著者の悔い改めの文書でもあります。異邦人を惜しまずにはいられない神様の御心をヨナ書は語っています。

先週、ヨナ書の信仰告白とも言うべき言葉を味わいました。「あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です」(ヨナ四・二)。思い直す。簡単なことではありません。今のロシアに思い直すことが出来るでしょうか。ウクライナも同様です。それぞれに正当性、どれだけ客観的であるかどうかはともかく正当性があって、これを思い直すことは出来るものではありません。出来るためには、お互いに忍耐深く慈しみを得る事が出来る見通しが必要でしょう。でも、それが出来ない。出来るのは、やり返すこと、謝罪を求め、相手を罰し、賠償を求め、やっつけることです。

 

もとより神様は罪人を罰し、災いをくだす、正義を貫くことのお出来になる方です。その神様が、災いをくだそうとしても思い直して下さる。なぜ神様にはそれがお出来になるのか。恵みと憐れみを見通せるからです。キリストの十字架です。その恵みと憐れみの御心を異邦人にまで向けて下さる。ユダヤ人には考えられないことでした。神様が罪に甘くなったのか。神様の正義、神様の側の正当性は無くなったのか。そうではありません。キリストが十字架で負って下さった。ユダヤ人をも異邦人をも世界中の人たちを惜しまずにはいられない愛が、恵みと慈しみとなって現れた。十字架に、正義と、罪を罰する正当性を貫かせた上で、それ以上の恵みと慈しみ、愛を貫かれたのです。世界の一致の土台は、この愛にこそあります。

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