日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2020年9月13日 説教:森田恭一郎牧師

「生きているというあなたの名前」

イザヤ  六二・一~三
ヨハネ黙示録三・一~六

生きているとは名ばかりで(三・一)とあります。直訳すると、あなたは生きている、という名前をあなたは持っているけれど。ここから本日の説教題を「生きているというあなたの名前」としました。

私たちの本質を「生きている」と主イエスが規定して下さった素晴らしい名前です。

サルディスの教会に宛てられた今日の箇所、名という言葉が他に三回出てきます。名前を強調しています。五節の後半に二回、彼の名を決して命の書から消すことはなく、彼の名を父の前と天使たちの前で公に言い表す。もう一ヶ所は日本語では分かりにくいのですが四節です。しかし、サルディスには、少数ながら衣を汚さなかった者たちがいる。この「者たち」が「名前たち」なのです。名前がもう、その人の存在そのものになっています。名は体を表す訳です。今日は、この名前が私たちに与えられている幸いを確認したいと思います。

 

しかしせっかくそのように名付けて戴いたのに、主イエスがサルディスにある教会の人たちに最初に言われたことは、私はあなたの行いを知っている。あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる、名前負けしているということでした。彼らの具体的な行いの様子については記していませんが、サルディスの教会の人たちは、ヨハネから書き送られたこの主イエスのお言葉を聞いてどう思っただろうか。

主イエスは福音書の譬え話をお話しされました。この最も小さな者の一人にしなかったのは私にしてくれなかったことなのである。お前たちは、私が飢えていた時に食べさせず、喉が渇いた時に飲ませず、旅をしていた時に宿を貸さず、裸の時に着せず、病気の時、牢にいた時に、訪ねてくれなかった(マタイ二五・三一~)。

またヤコブ書も。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いている時、あなた方の誰かが、彼らに「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです(ヤコブ二・一五~一七)。

今日の黙示録でも、主イエスがそのように私はあなたの行いを知っている。あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。さらに、私は、あなたの行いが、私の神の前に完全なものとは認めない(三・二後半)とお語りになります。

行いを伴うべき信仰についての厳しい言葉です。これは、私たちにとっても他人事ではありません。

 

どうしたらいいか。主イエスは教えて下さいます。目を覚ませ。死にかけている残りの者たちを強めよ(三・二前半)。だから、どのように受け、また聞いたか思い起こして、それを守り抜き、かつ悔い改めよ(三・三前半)。ここで主イエスは、あなたの行いを知っている、だから善い行いをするようにしなさい、と行いを求めてはいません。

行いは、福音の原点にしっかり立っているならその人なりの行いが自ずと伴ってきますから、まず目を覚まして、生きている者としての原点、信仰者としての原点、福音の原点に立ち返ることです。福音をどのように受け聞いたか思い起こして、それを守り抜け。悔い改めて私の方を向いて私を思い起こせ。自分が主イエスに愛されている、生かされている、そういう存在だということへ立ち戻れ。こう勧めています。

これが、自分のことだけでなく、教会の他の残りの者たちを強めよということなら、相互牧会の働きになります。みんなが生き生きするように関わり合い、生きるように強め合います。

信徒たちは地域社会に合わせて生きて行かねばならない。具体的なことは記していませんが、きっとサルディスでも、困難や、人生の課題もあったことでしょう。そのような時に残念なことに、信仰がぐらついて、主イエスが共にいて愛して下さることが分からなくなる。主イエスのお姿も見えません。そこで、もし、目を覚ましていないなら、私は盗人のように行くであろう。私がいつあなたの所へ行くか、あなたには決して分からない。盗人は当然、いつ押し入って来るか分からない。目を覚ましていれば来て下さった時に会えますよ。それから盗人のイメージはもう一つあります。今の私たち日本人には分かりにくいのですが、当時あちらの地方では、泥棒は日常茶飯事で、だから盗人は必ず来るものでした。そのように主イエスは必ずお見えになる。それでお会いできる。主イエスが見えなくなることはない。主イエスと共に歩めるから、と希望の確かさを指し示しています。

 

主イエスは、教会のもう一面を語ります。しかし、サルディスには、少数ながら衣を汚さなかった者たちがいる。彼らは、白い衣を着て私と共に歩くであろう。そうするに相応しい者たちだからである(三・四)。相応しい人がいる訳ですが、思いますに、教会が相応しい人と相応しくない人に固定的に二分されるのではありません。牧会し合って、目を覚まし、福音の原点に立ち帰ってみんな相応しい者へと招かれ導かれるのですから。

一人の人生において、より相応しい時とそうでない時があります。主イエスのことを思い愛されていることを心に留め共に歩む時があります。主イエスのことも愛されていることを忘れて傲慢になったり意気消沈したりする時もあります。

相互牧会においては、主イエスから離れ気味の人を慰めます。福音を受け聞いた時の事を思い起こしてもらい、主イエスの方を向いて主が共に歩まれることを信じて生きるようにと励まします。私たちは、慰め励まして牧会する時もあれば、慰められ励ましを受けて牧会される時もある。牧会しながら主イエスの恵みを共有して、自分も強められていきます。固定的に二分されてはいません。

 

イザヤ書はこう主の御言葉を語ります。主の口が定めた新しい名を以て、あなたは呼ばれるであろう(六二・二)。この新しい名、これを主イエスが名付けて下さった。あなたは生きているという名前。この名前になった理由は、名づけて下さる主イエスが、十字架に死んで甦られて生きておられるからです。死さえをも克服された生ける主イエスが、この名前を以て私たちを呼んで下さるからです。大事なことはこの名前を戴いていることを私たちが忘れないことです。主イエスは弟子に言いました。むしろ、あなた方の名前が天に書き記されていることを喜びなさい(ルカ一〇・二〇)。

そして今日の黙示録でも主イエスが宣言されます。勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。私は、彼の名を決して命の書から消すことはなく、彼の名を父の前と天使たちの前で公に言い表す(三・五)。名付けて下さった名前を消すことはない。「公に言い表す」は「信仰告白する」という言葉です。主イエスが、父なる神のみ前に、何と私たちを、生きている者としてこの名を以て告白し言い表して下さいます! 自分が、そして私たちが牧会し合う中で確認する、主の宣言です。

 

祈り 「私を求めよ、そして生きよ」(アモス五・四)と主は河内長野教会の私たちにも言って下さり、また私たちの名前が天に書き記されていることを感謝します。時に、世の中の現実や自分自身が弱くなってしまい、名前が天に記されていること、「あなたは生きている」という名前を忘れてしまう私たちを憐れんで下さい。またお赦し下さい。私たちもまた信仰を告白しながら歩めますように、そして、互いに福音に立ち返る教会の私たちとさせて下さいますようにお祈りいたします。

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