日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2021年7月25日 説教:森田恭一郎牧師

「現実と希望の幻」

民数記一一・一六~一七
黙示録 七・ 九~一七

本日はこの後、礼拝において長老任職式を執り行います。それで今日は長老のことに焦点を合わせて黙示録の聖句を味わいたいと思います。長老の役割について、黙示録は三つの事柄を語っています。一つ目は、礼拝をささげること。二つ目は、民を執り成して祈ること。三つ目は、天の幻を解説して神の民が目指す方向性を示すことです。

 

本題に入る前に、旧約聖書に登場する長老について一つ知っておきたいとことを紹介します。民の中に生じるもめ事、事件を裁く役割を、モーセが担っていたのを、一人では負いきれないということで、長老たちが担うようになります(出エジプト記一八・一三~参照)。そして今日読みました民数記一一章では、民が泣き言を言う。エジプトの方が良かった、ここではマナしか食べるものがない。モーセは、民がどの家族も夫々の天幕の入り口で泣き言を言っているのを聞いて、神様に言う訳です。私一人では、とてもこの民全てを負うことは出来ません。私には重すぎます。それで、主はモーセに言われた。「(中略)あなたに授けてある霊の一部を取って、彼らに授ける。そうすれば、彼らは民の重荷をあなたと共に負うことが出来るようになり、あなた一人で負うことはなくなる」(民数記一一・一四 、一六~一七)。長老は、信仰と社会的知見を以てもめ事の解決を図り、霊を授けられて預言を語り、モーセだけでなく長老も神様のご支配の一端を担い、神様に仕えました。これも、長老の大切な務めの内の一つです。

 

さて黙示録に入りますが、黙示録に登場する長老は、イスラエルの民、また教会の長老とは全く別の、天的な存在です。ヨハネが見た幻です。論理的に理解しようとするより、イメージを描くことが大事です。まず四章、天には神様のお座りになる玉座がある。玉座の周りに二十四の座があって、それらの座の上には白い衣を着て、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老が座っていた(黙示録四・四)。金の冠をかぶっているなんて何か偉そうですね。また玉座の中央とその周りには「四つの生き物」がいて玉座の神様に向かって栄光と誉れをたたえて感謝をささげています。

すると、二十四人の長老は、玉座に着いておられる方の前にひれ伏して、代々限りなく生きておられる方を礼拝し、自分たちの冠を玉座の前に投げ出して言った。金の冠は、礼拝において献げるためにかぶっていたのですね。そして長老たちは、「主よ、私たちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるに相応しい方。あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです」(黙示録四・一〇~一一)。万物による礼拝を見通しつつ、二十四人の長老たちが、一言で言えば「栄光 神に在れ」と礼拝をささげています。これが長老の役割の一つ目です。

 

次に五章、巻物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、各々、竪琴と、香のいっぱい入った金の鉢とを手に持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖なる者たちの祈りである(黙示録五・八)。これも礼拝の光景、ここには香がある。香は香りと煙が天へと昇っていく「祈りのしるし」です。その香の入った鉢、人々の祈りを持って御前にひれ伏す。迫害もあった時代です。「主よ、憐れんで下さい。私は嘆き苦しんでいます。主よ、癒して下さい。私の骨は恐れ、私の魂は恐れおののいています。主よ、いつまでなのでしょう」(詩編六・三~四)。切実な訴えもあったでしょう。そのような祈りを携え差し出す。これが二つ目の役割です。長老の時には目立たない執り成し祈る姿です。

 

そして七章九節以下の箇所、三つ目の役割を記します。天上の幻を解説して神の民が目指す方向性、それを祈るだけでなく示すことです。私たちが落ち込み、どうして良いのか分からなくなったような時に、長老は教会で育んできた私たちの信仰を確認し、垂直的には現在の天を見上げ、水平的には将来に向けての方向性を示していくことです。教会にとっても同じ。

まずここでは天の大群衆の礼拝です。白い衣を身に着け。「救いは、玉座に座っておられる私たちの神と、小羊とのものである」(七・九~一〇)と信仰の告白をささげています。続いて天使たちが礼拝をささげ、そしてこう言った。「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力が、世々限りなく私たちの神にありますように、アーメン」(七・一二)。天使たちは、大群衆の信仰告白の言葉を受けてアーメンとまず応答して「栄光 神に在れ」と礼拝をささげます。

 

次に、天上で礼拝をささげている大群衆が身にまとう白い衣について語ります。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」(七・一四)。既に洗って白くした。つまり主イエスの十字架の贖いによって既に罪赦されたということです。神の小羊、すなわち主イエス。その十字架が罪の贖いの救いを成し遂げたのだ、と教理的な信仰内容、教会の土台と、恵みを受けた大群衆の姿を指し示します。

それは、天上では実現している私たちと教会の真の姿です。「それ故、彼らは神の玉座の前にいて、昼も夜もその神殿で神に仕える」(七・一五)。大群衆礼拝の光景を描きながらヨハネは恐らく、この礼拝の現在の天の光景と、自分たちの地上の教会の現在の礼拝の光景を重ね合わせています。自分たちの地上の礼拝の姿と言えば、教会堂もない、人数も少人数、社会的存在として認められてもいない、これからの見通しもない。実に細々とした現実の姿です…。でも、大群衆が大手を振って礼拝をささげる天上の礼拝の幻の姿を描きながら、地上の礼拝をささげる。ヨハネはこれを地上の礼拝の窓から望み見てイメージしています。

 

そして次に長老は将来の事を語ります。日本語では分かりにくいですが未来形です。到達点を示して希望を語ります。教会の目指す方向性です。「玉座に座っておられる方が、この者たちの上に幕屋を張る」。幕屋を張って神の住まいに招き入れて下さいます。主イエスが「あなた方のために場所を用意してくる。私の父の家には住む所がたくさんある」(ヨハネ一四・二~)と約束下さったあの住まいです。長老は終末の光景を語る。これがあれば、たとえ地上の人生が苦難の中にあり、また間もなく人生が終わる状況になっても安心です。そこでは彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽もどのような暑さも、彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙を悉く、拭われるからである」(七・一五後半~)。

地上では外から迫害があり、内では信仰が揺らぐ、教会から離れそうになることがあっても、長老がしっかりと私たちの到達点、キリストの十字架を根拠にして、長老が天上の現在と将来の幻を語ってくれる。

以上、ヨハネが見た幻に現れた長老の姿です。礼拝をささげ、執り成しの祈りをささげ、教会の目指す到達点を指し示す姿です。ヨハネはどれ程安心と勇気をもらったでしょう。私たちも同じ。

 

黙示録の天的な長老たちは、地上の教会の長老ではありません。でもその上で、黙示録に示された長老は、地上の教会の長老の目指す姿を映し出していると受け止めましょう。何よりも礼拝者であり、教会に招かれた者たちが神の民として守られ整えられていくように執り成しの祈りをささげ、教会の幻、その目指す方向性や到達点を指し示していく牧会的営みです。思えば、これは牧師も全く同じですが、逆に、ある時、長老が教会員と話をしている。以前、私が説教で語ったことと同じ事を語っている。長老が牧師の役割を、教会員との関わりの中で担って下さっている。それで良いと思いました。これが皆さん同士に広がっていくなら、もっと有り難いですね。これが相互牧会で目指していることの一つですね。

私たちには地上の教会の現在の姿があります。一五節には、大群衆が「神殿で神に仕える」天上の現在の姿がありました。これを現在の地上の私たちの姿に言い換えて「教会でキリストに仕える」。キリストに仕えるとは「教会の頭であるキリストに仕える」ことですから、「教会に仕える」(コロサイ一・二五参照)と言い換えて問題はない。

これが地上の私たちの姿です。皆さんが信徒の立場から教会に仕え、長老は長老の立場から教会に仕え、牧師は牧師の立場から教会に仕えます。

 

教会の長老は、天上の長老のようにそのまま長老である訳ではありません。ですから、その務めを担うために、神様から選び出され、霊を受けて、初めてその務めを果たすことが出来ます。

思えば私たちはみんな召されたる者です。キリストが私たちを救うために教会に召して下さり、召されたる者の集いが教会です。私たちを、礼拝をささげ、教会に仕える者として下さいました。長老もキリストからの召命と信じてその務めに就きます。