日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2021年3月14日 説教:森田恭一郎牧師

「無頓着ではいられない」

創世記一八・九~一五
ヘブライ二・一~四

先週一つの問いかけをしました。天使の存在を信じますか。答えとして、神様からの啓示体験を文学的に表現したのが天使だ。天使は、御心を告げ知らせるため世の人々に遣わされる者です。御心を告げ知らせる者として世に遣わされたのであるならば、キリスト教会も私たちキリスト者も天使です。そうお話致しました。

私たちは御心を告げる天使としてのキリスト信者です。けれどもそれは、まるで天使のように清らかで、何か、如何にもキリスト信者らしさが自分にあるというのではありません。今日の主題でもありますが、聖霊の神様の導きの下、啓示を受けて、自分らしく生きる者となるということです。自分らしく生きるとはどういうことか。またそのために何が必要かということです。

 

ヘブライ書は、だから、私たちは聞いたことに一層注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます(ヘブライ二・一)と、私たちに必要なことを語っています。聞き流すのではなく、押し流された人生にしないために、一層注意を払って聴き、心に留める。このことについて今日はまず、アブラハムとその妻サラの啓示体験についての創世記の記事を味わいます。

創世記一八章です。その初めの所、主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた

(創世記一八・一~二)。

アブラハムは、すぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、客人に言いました。「せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから」。せっかく来て下さった。半分あっています。もう半分は言い直すと良いでしょう。本当は、たまたま近くを通ったのではない。アブラハムとサラを目指してここに来て下さったのです。だからせっかく来て下さった。それを人間の側が通り過ごしてはいけない。せっかくの機会を失う。一層注意深く聴かねばなりません。アブラハムは三人の客人を最大限にもてなします。

ここでは天使ではなく三人の人となって主が現れました。何と素晴らしいことに、主が啓示なさるのです。啓示の内容は、「私は来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう」。このように主の御心が告げられました。ところがです。サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていた。サラは秘かに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。サラは、聞いていました。サラも啓示を受けた。でもサラは思った。そんなことある筈がない。聞いたことに御心に適うようには一層注意を払って聴き取ることをしませんでした。ここに人間の罪が現れましたね。サラは秘かに笑いました。

秘かに…。人には知られては困る事、とても大ぴらには出来ない事を、私たちは誰もが隠し持っています。神様にしか言えない事、いや、出来る事なら神様にも隠しておきたいことがある。もちろん、神様には隠し通せるものではありません。

主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ」。サラは見事に見破られてしまいます。

 

「秘かに笑う」、受難節の今、もう一つ思い起こす笑いがあります。それは「あざ笑う」。十字架の主イエスを前にして、議員たちもあざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」(ルカ二三・三五)。そして、十字架につけられた犯罪人の一人も主イエスを罵りました。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」。アブラハムの妻サラの秘かな笑いは、主イエスの前ではあざ笑いになり、罵りになる。今、目の前に出来事となっている大きな救いに対して人々はあざ笑い罵る。

私たちはそこまではしないと思いたい。それでヘブライ書は、これ程大きな救いに対して、無頓着でと表現しています。罵ることまではしなくても、私たちは無頓着には大いになり得る。この無頓着という言葉、主イエスが婚宴の譬え話の中でこう言われました。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意が出来ています。さあ、婚宴にお出で下さい」。しかし人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ…(マタイ二二・四~五)。王様がせっかく婚宴に招いて下さったのに、その招きに対して無頓着で無視して平気。自分の仕事の方が大事。本来なら私たちは無頓着でいられないはずです。

もし、無頓着でいられるとするなら、聞いたことに一層の注意を払って、せっかくの福音の大きさを受け止めていないからです。私たちも、このような事態はあるでしょう。日曜日にどうしても行かねばならない仕事がある、用がある。そのような時にどうしても、と言うならせめて、ちゃんとそのことを神様に申し出て、申し訳ないけれどすみません、という姿勢が必要ですね。無頓着な仕方で礼拝を休むことは出来ません

 

サラの話をもう一度。サラは秘かに笑ったことを見破られてしまいました。そして見破られてしまうだけではありません。サラの考えや常識を遥かに超えた、主の御心が示されました。「主に不可能なことがあろうか。来年の今頃、私はここに戻ってくる。その頃、サラには必ず男の子が生まれている」。主のご計画、御業の宣言です。主の御心が、しかも自分に対して示されたと気付いたら、謹んでというか深い喜びを以て受け取るしかない。笑い飛ばすことなど出来る事ではない。聖なる事柄に触れる経験。サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。「私は笑いませんでした」。ここでサラは注意深く聴く姿勢になった。主は言われた。「いや、あなたは確かに笑った」。笑ってしまった事実を無かったことにする訳にはいきません。秘かに笑う罪も、大ぴらに嘲笑う罪も、無頓着で通り過ぎる罪も、キリストは十字架で担って下さいました。キリストはご自身を屠って、用意を整えて「さあお出で下さい」と私たちを大きな救いの場所にお招き下さっています。

 

アブラハムとサラに起こった啓示体験。その内容は人間には出来ない神様の御業です。サラは秘かに笑いましたが、神様は、主とその御業を信じない罪の事実を受け取って、このサラを用いてご計画を成就していかれます。それを人間の側として受けとめ肯定するようにと招いて下さいました。その招きは、神様の語りかけとして起こります。以前とは異なる変化していく人生、そこに、以前、その都度注意して聞いていた聖書の言葉が、その時々に相応しく入って来る。それをまた注意深く聴き取っていく。聖書は、読み物ではなく、主の語りをここに聴き取るものです。

注意深く聴き取ります。その語りかけが響いて来る。これまでの生き方で良かったかな、その問いかけが自分の中にあって響き合うと、聖書の語りが啓示体験になっていく。自分の人生はこのことのためにあったのだという気付きです。それはまた他人に比べる必要はありません。そうすると今度は、その目的に沿って生きるように生活を方向づけていきます。このために人生があったのだという気付きに無頓着ではいられないからです。それもまた、他の人があれこれ口出すことではありません。その本人の人生です。その積み重ねの中で、本当の自分らしさが現れて来る。実は私たちも「さあ、お出で下さい」と新たな歩み出しへと今日も導かれていのかもしれません。