日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2024年4月21日 説教:森田恭一郎牧師

「涙と共に 種蒔く人は」

詩編一二六・五~六
ガラテヤ六・六~一〇

パウロは教会の人たちに勧めます。たゆまず善を行いましょう。全ての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう(ガラテヤ六・九、一〇)。ガラテヤ書では、教会の中で、福音の恵みに生きることが妨げられていて、教会の人間関係に対立もあったようです。でもそこで対立しないで善を行おう、とパウロは勧めています。でもそれは単なる勧善懲悪ではなさそうです。恵みに生きようと勧めています。

 

今日読みました詩編一二六編は、その冒頭、主がシオンの捕らわれ人を連れ帰らせると聞いて、私たちは夢を見ている人のようになった(詩編一二六・一)とありますように、 捕囚中の人たちが、エルサレム帰還の希望の知らせを耳にしたときの、喜びの歌です。

この詩編を自分の人生と重ね合わせて読むことも多いと思います。涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる(詩編一二六・五~六)。ある説教者は種蒔きについてこう語ります。 種蒔きの多くは寒風吹き荒ぶ冬に行われました。泣きながら、べそをかきながら出て行きました。一番辛い季節に、一番辛い仕事をした人だけが収穫の喜びを味わうことが出来るのです(小島誠志)。

そして、種の袋を背負うとある訳ですから、続けてこう語ります。背に耐え難い重荷がのしかかる、とき、私たちは種を背負っているのだということを忘れてはなりません。その重さはそのまま祝福の重さに帰られる日があるのです。一二六編は今生きてる私たちにとっても慰め豊かな御言葉です。

 

自分の人生を振り返ったときに、色々なことがあった、上手くいったこともあったけれど失敗も沢山あった。あれで良かったのかなと思うときもある。人生は、喜びも悲しみも、楽しみも痛みも、これら全てを含めて、仮に苦労ばかりの営みであったと思えても、そこを生きた人生であったことに、ある深まりと自分の固有な人生だったと振り返ることが出来ます。人生は自分が負うしかない面があります。パウロはめいめいが、自分の重荷を担うべきです(ガラテヤ六・五)と語りましたが、人生は、助け合ったり支え合ったりしたとしても、それも含めて自分の人生です。このパウロの言葉、未来形なので終末の審判を語っているのでは、と理解されたりもします。

そして、この後、刈り取るという言葉、これは聖書では、終末のイメージの用語ですが、パウロはこれをここで四回用いています。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります(ガラテヤ六・七~九)。

終末のイメージというと裁かれるイメージを持たれるかもしれませんが、最後は収穫の実を刈り取ります。

主イエスがお語りになった種蒔きの譬え話を思い起こしましょう(マタイ一三・一~)。種を蒔く。道端に落ちて鳥に食べられた種、石地に落ちて日が昇ると焼けてしまった種、茨の間に落ちて茨にふさがれてしまった種。良い土地に落ちて何十倍もの実を結んだ種。鳥に食べられてしますのは、種を蒔いてすぐ結果が出ます。でもその結果に捕らわれたりがっかりしないで種を蒔き続ける。何倍もの実をもたらす種は、収穫まで時間がかかります。収穫をイメージしながら、仕事に励みます。人生もそうかも知れません。駄目な部分は駄目だった、としか言い様がありません。肉に蒔いた所は駄目だったね、と言われてもしまいます。神は人から侮られることはありません。御前にごまかしたり隠したりは出来ません。駄目なことは駄目。でも最後に収穫がある。

黙示録も語ります。刈り入れの時が来ました。地上の穀物は実っています (黙示録一四・一五)。神様の終末における視点は実りです。

滅びを刈り取る部分はご免なさいと謝りながら、霊から永遠の命を刈り取る部分に思いを向けるべきではないでしょうか。しかもそれは何十倍もの実を結ぶ。

 

この希望をしっかり見据えながら、今を生きる。終末にまで至らなくても、日々、キリストの御前にあって生きる、というのは終末論的な生き方と言えるでしょう。その生き方をパウロは、たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになりますと語ります。

時が来るまでの、時のある間に、今を生きています。もう治療出来なく無くなった患者さん、今ある一日一日を大切に善を行って生きて欲しいと願います。時のあるまにという言葉が響きます。病床では今更、善なんか出来ないと思うかも知れませんが、自分の人生を振り返って、あの人この人に、感謝の思い、赦しの思い、ご免なさいの思いを、素直に語る姿は、善に生きている姿であるように私には思えます。神様に感謝をささげられれば尚更です。

神様の恵みに思いを向けさせる教える人がいる。患者にとっても誰にとっても大事なことです。御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物を全て分かち合いなさい(ガラテヤ六・六)。持ち物と言えれば持ちもだったり、今日で言う謝儀のことかもしれませんが、教えてくれる使徒パウロを馬鹿にせず、御言葉を分かち合う。

元気に生きている私たちも、時が来るまでの間に、時のある間に、御言葉から教えられて、恵みに思いを向けつつ歩みます。

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