詩篇16篇7~11節
テモテへの手紙一1章15節~17節
本日は、主の祈りの「国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり」、特に「栄=神の栄光」を念頭に置いてこの祈りを味わいます。河内長野教会は創立百年誌の表題を「栄光、神に在れ」と致しました。教会の全ての活動の目標は「栄光、神に在れ」にあるということを、今日確認したい。
「栄光、神に在れ」が主の祈りの最終行にあることを考えますと、そもそも祈りは、神の栄光を誉め称える頌栄、賛美を以て終わるものだと気付きます。私たちは色々と祈ります。感謝だけでなく、悲しみの祈りがあり、溜息交じりの嘆きもあり、神への文句もあるでしょう。我が神、我が神、何故?と祈りつつも、最後は賛美に至る。
更に気付くのは、地上の歴史も「国と力と栄とは神に」となることです。どれ程、横暴な国家やその権力があり繁栄していても、永遠には続かない。また自分の人生も、逆に不幸があり心配事があっても、それで終わるのではない。もちろん不幸な歴史や人生のまま終わることもあるではないかと思う。しかしそれも、それが最終ではない。死さえも死で終わらず復活の輝きの中に向っている。御国を来たらせ給え、最後には御国が来て、栄光は神に帰せられると信じることが出来る。
今日の新約聖書、パウロが弟子のテモテに書き送った書簡の一部です。ここではパウロは自分のことを一五節後半、罪人の中で最たる者ですと言う。何故なら一三節、以前、私は神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者、教会の迫害者だったから。だから神から罰を受け滅ぼされても仕方ないのに、人間の常識を超えて、神は救い主を遣わされた。それで一四節、そして、私たちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれる程与えられました。だから一五節、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値しますと感謝を表す。そして一七節、永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメンと頌栄を祈らずにはいられない。
罪人の中で最たる者と言うパウロは、将来に向けては「栄光、神に在れ」と締めくくる。でも勘違いしないで下さい。神様に栄光が在るのは当然、自分と離れた天高く彼方で起こるのだと。パウロは自分の人生の中に「栄光、神に在れ」と考える。つまり一六節、私が憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずその私に限りない忍耐をお示しになり、私がこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。罪人の最たる者なのに憐れみを受けた、その手本として生きている。何か立派に出来ている手本ではない。憐れみを受けるしかない罪人としての手本です。だからこそ栄光は、自分にではなく神に現れます。
今日は午後、講演会、講師に俣木さんをお迎えします。俣木さんのご著書をお借りしました。『わが家のリビング、介護天国』。その最後を夫婦の会話でこう締めくくります。「心配は尽きんけど」。「色々、心配したかてしようがない。聖書に『明日の事は明日が心配する』ってあるじゃないか。心配いらん」。「そうやね。お互いぼちぼち行きまひょか」。夫がにっこりして手を差し出した。その手のひらは、温かかった。
私たちも高齢化する。自分は大丈夫だろうか、やはり心配は尽きない。だから私たちも「心配いらん」と言えるように、日常の実際的な所から学びたい。それで俣木さんのお話を是非伺いたいと思った訳です。もう既に十年程前、一度お招きしてお話は伺っていますが、日増しに実感となって不安が増大してくる中、今の時点で改めてお話を伺い、備えをしたい。
それにしても「だから、明日のことまで思い悩むな。明日の事は明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」、この山上の説教のお言葉が結びになっているのは印象深いですね。そして、この直前に主イエスが語られましたこと、これは言い換えれば、主の祈りを順に、悪より救い出し給えと祈ってきて「だから国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり」となるのと同じなのですが「あなた方の天の父は、これらのものが皆あなた方に必要なことをご存知である。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」。
何事も最後には、主の祈りの最後の祈りのようになる。罪人にとってもそうなる。何故か? 神の栄光は、一方でキリストが神の右の栄光の座に就いておられることにおいて輝く栄光ですが、他方、父なる神様は、十字架の主イエスに栄光をお授けになり現わして下さったからです。「私は既に栄光を現わした。再び栄光を現わそう」(ヨハネ一二・二八)。十字架を前にした主イエスに、父なる神は天から声をかけて下さった。神の栄光は、十字架の贖罪愛に現れる。
神の国と義を表す力、国と義は愛を伴って神の栄光になる。祈りも人生も教会活動も、神の栄光のために。そして高齢となり介護が必要となる私たちの営み、介護を提供する営みも介護を利用する営みも、皆、愛を伴って神の栄光のためにある。
私たちは生活の見通しにおいては心配が尽きない。でもその中で、み言葉を思い起こし、分かち合い、「栄は汝のもの」と祈り合う。夫婦がそういう夫婦になる。大事なことですね。俣木さんのご著書の初めの方に、介護サービスを志す夫に押しまくられそうになりながら自分だってクリスチャンの端くれだと聖書の言葉を思い起こしておられる場面があります。コヘレトの言葉ですね。「二人は一人よりも優っている。二人が労苦すれば、良い報いがあるからだ。もし一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる」(四・九-一〇)。そうですね。夫婦であれ、親子であれ、友人であれ、一人より二人の方が良いですね。
一緒にいても神の栄光を共に求められないなら寂しいし、独り住まいという人もこれから益々増えてきます。だから教会の友が集まり、その中に入る。囲まれる。包まれる。教会の友だからこそ、世間話で終わるのではなく、神の御名を誉めたたえ、神の栄光を仰ぎ、魂を温めることが出来る。つい、下ばかり見てうつむきがちであっても「天にまします我らの父よ」と共に天を見上げて神の栄光を求めることが出来る。罪の重荷に喘ぐことがあっても「我らの罪を赦し給え」と確信を以て祈ることが出来る。互いに励まし互いに慰める友がいる。教会が介護に関わる意味はここにある。
ペトロ書四章にこうあります。あなた方は夫々、賜物を授かっているのですから、神の様々な恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。語る者は、神の言葉を語るに相応しく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、全てのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。ペトロは語る。賜物を生かしての私たちの営み、教会の営み、その全ては神の栄光に至るのだと。
それで河内長野教会も、賜物を生かしてのサービス提供の一翼を担いたい。人が病の床にあるとき支え、力を失って伏すとき立ち直れるように(詩編四一編)、この幻を、気持ちだけでなく、実際に具体的に追い求め、これを通して神の栄光に仕える私たちになりたい。
当教会は、礼拝、伝道、教育、奉仕をもって宣教に携わり教会形成をし、神の栄光を現わしてきました。この度の高齢者福祉の課題は、奉仕に関わることです。教会員同士の中での奉仕があります。そしてまた市民に開かれた教会外に向けての教会の奉仕、市民も含めた色々な方たちの賜物が用いられる可能性もあります。具体的な形はこれからです。そのヒントを今日は戴ければ幸いです。どのような課題と可能性があるのか、明確に言葉にして、その祈りを共有出来るようになりたい。
「栄光、神に在れ」。御心の天に成る如く地にもということですから、「栄光、神に在れ」は私たちの人生の中に現れ出てくることです。そのような私たちは、きっと楽しいのではないか。
今日の詩編一六編はそう語っています。夜、独り床に就いた時の祈りのようです。私は主をたたえます。主は私の思いを励まし、私の心を夜ごと諭して下さいます。私は絶えず主に相対しています。主は右にいまし、私は揺らぐことがありません。私の心は喜び、魂は躍ります。教会の関わる介護だから、思いを励まして戴いて、神様に相対することが出来るように応援し合います。共に神を賛美できる。それでそうなると、体は安心して憩います。あなたは私の魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、命の道を教えて下さいます。私は御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びを戴きます。永遠の命への希望も、教会だからこそ提示できるに違いない。
私たちが自分の人生のこれからに対して望み見ていることはこれではありませんか。又、このことを分かち合えることではありませんか。この詩篇が望み見ている光景は、介護を必要とする現実の中にあってこそ実現する喜びの光景です。喜びがあるからこそ、栄光、神に在れと伸び伸びと賛美できる。このことを主の祈りは支えてくれます。今日のご講演を、神の栄光のための第一歩に!