マタイ二二・三四~四〇
イエス様が私たちを愛して下さるので、私たちも「イエス様、有り難う」とイエス様を愛し、イエス様に愛されている自分をも、隣人も愛します。
今日の聖書では、律法学者のファリサイ派の人々が律法について尋ねました。「どの掟が 最も重要ですか」(マタイ二二・三六)。皆さんは、十戒を知っています(じっかいと読みます)。その最初の掟は、「あなたは、私をおいて 他に神があってはならない」(出エジプト記二〇・三)でしたね。~してはならない、という禁止の掟は三六五あるそうです。それから「安息日を心に留め、これを聖別せよ」。このように~しなさい、という掟は二八四あるそうです。合わせて六一三の掟です。
それでファリサイ派の人たちは、その中でどれが一番重要ですか、と尋ねました。あれもこれもみんな大事だと思えて、律法の専門家の彼らも分からなかったのです。私たちの国で、大事な法律は何か、知っていますか。国民主権、基本的人権、平和主義を唱える日本国憲法が一番大事、他の法律の基本になります。ここから他の法律を作っていきます。
それでイエス様は何てお答えになったかというと、二つの基本的な掟を言われました。一つ目は 「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マタイ二二・三七=申命記六・五)。もう一つは 「隣人を自分のように愛しなさい」(=レビ記一九・一八)。神を愛すること、隣人を愛することです。他の六一一の掟は、この二つの掟を基本に、あるいは目指して定められている、という訳です。
そして二番目の隣人を愛する掟をよく読むと、自分のようにとあります。どいう自分のように、ということかと言うと、神様に愛されている自分のように、ということですから、自分のことも愛して良い、大切に、と言っているのですね。
さてここに一つのお菓子を持ってきました。今、自分一人だけいるなら一本全部食べてもいいですね。それなら、二人いたらどうしますか? これ僕の分だもん、とあげませんか? それとも、あげますか? ここで良い言葉があります。「半分こ」。半分に分け合ったらいいですね。「ハイッどうぞ」。分けてもらったら「有り難う」とお礼を言って遠慮なく戴きます。実は今日、三本持ってきました。後で一階の所に持っていきますから、みんなで分け合って下さい。これも良い言葉があります。「分かち合って」お食べて下さい。これって、自分も愛するし隣人も愛することです。
それから、ここに一つの絵を持ってきました。昨年秋に小学生のお友だちが描いてくれた柿の木の絵です(地上の部分)。柿が成っています。この柿の木は、自分の木になった実を、これは僕の木になったんだから僕のだよ、誰にもあげない、と言っているでしょうか。そのようなことはありません。鳥が飛んできて ついばんだら それも良し。動物が来てガブリっと食べたら それも良し。人間がやって来て収穫するなら それも良し ですね。この木は、鳥も動物も人間も、いわば隣人を愛してます。
この柿の木はどうして、柿の実を全部あげることが出来るのでしょう? (地中の部分を示して)それは根っこを通して土から栄養を沢山いただいているからです。神様から愛をいただいているので、全部あげることが出来る。実はまたなるから、と安心してあげちゃうんですね。
あれー? 私たちは全部あげられますか? 何か出来ないような気がします。分かち合うのが精一杯です。そのような私たちをイエス様は愛し赦して下さいす。イエス様が大切にしておられる、愛しておられる。見えないイエス様ですが、礼拝で聖書から分かります。実はイエス様が十字架でご自分の命の全てを注ぎ尽くして、私たちを愛して下さっています。だから、だから「イエス様、有り難う」と礼拝をささげてます。礼拝はこのように「イエス様、有り難う」の心、精神、思いで、全身全霊をささげて神様を愛することです。
そして、神様に愛されているから、僕も私も、そしてあなたも愛されているよ、イエス様の愛を分かち合うのが隣人愛です。喧嘩してしまうとつい、相手の悪いところだけを見てしまいます。でも、その様なときにこそ、イエス様を見上げる。イエス様が愛している相手なんだ、悪いところを十字架で負って下さった相手なんだと、イエス様を通して、相手を見る。するとその時、隣人愛が自分の心に溢れてくることでしょう。