日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2020年6月14日 説教:森田恭一郎牧師

「惜しみなく、咎めだてなく」

ヨエル二・一三
ヤコブ一・一~八

毎週ではありませんが、しばらくの間、ヤコブ書から御言葉を味わって参りたいと思います。ヤコブ書は信仰者としての行為を課題に掲げます。それで、信仰義認を宗教改革の旗印に掲げたM・ルターは、当初、ヤコブ書を藁の書簡と言って信仰的ではないと判断しました。人が救われるのは信仰に拠るのであって行為に拠るのではない。ヤコブ書はその理念から外れると思えたからです。でも、ヤコブ書も聖書正典に含まれる書物です。後にルターは自分の勘違いに気付き、藁の書簡と言ったことを撤回しました。救いのためには行為は必要ないが、救われ者として生きることとして行為は信仰者に必要であるからです。

今年度、河内長野教会は「相互牧会」を主題に掲げています。牧会とは、お一人おひとりを覚えてその魂へ配慮することですが、その配慮は祈りと共に、行為を伴って相手に届くものです。ヤコブ書に親しんで、牧会としての行為を私たちも自覚し、身に付けたいと思います。福音は、頭で理解する部分と共に、身に付いた牧会として、私たちの生活に形となり社会の歴史に残っていきます。

 

本日の主題は、希望を見通す忍耐、それをもたらす知恵です。そこに結びつく形で、完全とか欠けのないことへの言及もあります。まず完全について思い巡らしますと、今日の聖句にあくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります(四節)とあります。私たちは多くの場合、私など完全な者、立派な信仰者になんかなれないと思う。ヤコブ書はどのような完全無欠を求めているのでしょうか。他の聖書個所からヒントを得たいと思います。

主イエスは山上の説教で、敵のために祈り、悪人にも善人にも太陽を昇らせ雨を降らせて下さる父なる神の完全を語って、私たちが天の父の子となるために「だから、あなた方の天の父が完全であられるように、あなた方も完全な者となりなさい」(マタイ五・四八)と、私たちに完全を求められました。これは悪い私たちも恵みを戴いていることを受け取る所から生じてくる完全さです。コロサイ書は、あなた方が完全な者となり、神の御心を全て確信しているようにと祈っている(コロサイ四・一二)と言います。ここでの完全は、御心を確信している完全さです。

聖書のこういった表現から、完全というのは、自分自身の完全というより、神様ご自身の完全を信じて神様に拠り頼むことです。神様抜きに自分が神様のように完全になることではなく、自分の弱さの故に、繰り返し神様に願う姿、神様の御心に想いを向け確信する姿です。私たちは、もしかすると、完全な者とか信仰者とか言うとき、信仰者らしさと自分らしさが別々にあって、自分は立派な信仰者ではないと考え、自分とかけ離れた信仰者のあるべき姿を思い描いていませんか。でもそうでなくて、自分の自分らしさとは、そのまま自分の信仰者らしさなのではないか。何やかんや言っても、キリストに愛されている自分なのですから、神の愛とピタッとくっついている自分らしさがあるはずです。信仰者でない自分なんて考えられないからです。

自分らしさというのは、身に付いているものです。習慣になっている。今の感染症の状況の中で実は強力なワクチンがあるそうです。「衛生習慣」。

手を洗う、うがいをする、マスクをするといった衛生習慣。私たちも信仰者としての信仰習慣があって、自分では自覚しない位に身に付いている。もっとも、ちょっと意識して身に付けなければならないものもあるかもしれない。これらのことをヤコブ書は再確認しようしているのです。

 

さて第一節。神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします。離散している人たち、国が滅びて人々はバラバラになる。祖国の土地に戻れなかった人たちが、行った先で住み着く、そういうイスラエルの人たちのことですが、思えばキリスト教徒の姿も同じです。主日に教会に集って礼拝をささげ、礼拝が終わると日常の生活に戻り、地域で離散して生きる。でも地域で教会の信仰から離れて無信仰者として生きるのではなく、信仰者として自分らしく生きている。

当時のローマ帝国の下では、迫害があり、殉教を迫られる、そういう試練があった。私の兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい(二節)。試練に出会う。善きサマリア人の譬え話に、ある人が追いはぎに襲われたという記事がありますが、直訳すると、追いはぎたちに取り囲まれて。私たちも日本社会の文化・因習に取り囲まれている。幸いなことに、今日の日本国憲法の下では、試練が迫害という目立った仕方で私たちを取り囲むことはありませんが、むしろ、気が付かない程に文化・因習が私たち自身に身に付いて習慣になっている。日本人なら当然です。きっとインドネシアや韓国からやって来られた方には、却ってよく見えることでしょう。

 

試練に取り囲まれる。その結果どうなるかというと、ヤコブはこう言います。信仰が試されることで忍耐が生じる。忍耐が生じてくれば良いのですが、試されて、自分の心が折れたり心傷つく経験をする。その傷が傷のまま残ることもある。信仰を捨てたくなる時もあるかもしれません。それで今日の主題なのですが、信仰が試されて、でもそれが傷として残らないで、忍耐が生じるようになるには何が必要なのでしょうか。

ヤコブは、あなた方の中で知恵の欠けている人がいれば、誰にでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさいと知恵を願うことを私たちに求めます。知恵というと、人生経験から得た人生訓のようなものと考えたりしますが、今日は少し視点を変えて知恵を味わいたい。それは「物語る」という視点です。

知恵を神に願い求めるのですが、その時に心得るべき神の性質がある。誰にでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神。咎めだてしない。もし、神様から「お前はな」と咎められたら 私たちにはもう立つ瀬がない。でも神は私たちを咎めだてなさらない。悪い者の上にも日を昇らせ雨をもたらして下さいます。

咎めるという言葉は、罵(ののし)るとも訳されています。主イエスは十字架への途行きで、あるいは十字架上で罵られました。でもルカ福音書が語る十字架上の犯罪人の一人は罵らなかった。代わりに彼がしたのは、十字架の主イエスの傍らで自分の人生を物語ることでした。「我々は自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ」(ルカ二三・四二)。ギュッと凝縮して一言で自分の人生を語ります。当然だ、仕方がない、これは諦めの言葉のようにも聞こえます。嘆きのようにも聞こえます。自分の人生、十字架に付けられて終わる犯罪人の人生だったこと、自分が今、十字架にかかっているこの現実を物語りました。なんでこんな事になってしまったかなという悔いもあるでしょう。そうやって言葉にすることによって今に至る人生を振り返り受け止めている訳です。諦めでも嘆きでもいい。この作業が、知恵を生み出す作業になっています。

そこから、思いがけない言葉が口をついて出てくる。「イエスよ、あなたの御国にお出でになる時には、私を思い出して下さい」と。希望を願う言葉です。実は彼も気付いていなかったであろう心の深い所にあった彼自身の願いです。そして、決定的な主イエスの語りかけを聞きます。「はっきり言っておくが、あなたは今日、私と一緒に楽園にいる」。主イエスはこの犯罪人に惜しみなく咎めなく恵みを注いでいます。彼はその時、十字架にかかっている現実から解放された訳ではない。でも、彼の心は安定した。思いも拠らない仕方で主イエスから自分の将来の物語を与えられたから。願いとしての希望が確かな希望になりました。

 

もう一人の犯罪人は、主イエスに向かって「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と文句を言った。彼は人生を物語ってはいない。彼自身は希望を見出せていない。ヤコブが語るように、そういう人は、心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です(八節)。

もっとも主イエスはこちらの犯罪人に対しても、咎めてはいない。「お前のような奴は救われない」とは仰らない。沈黙しています。そこに救いの可能性が残されています。だからこちらの犯罪人もここで知恵が必要です。もう一方の犯罪人に対する将来の希望の物語を耳にしたなら「私にも与えて下さい。私もその希望の物語を描きたい」と信仰を以て願えばいい。

この希望の物語は人生訓からは出てきません。キリストの救いの物語だからです。この福音を聴き取り、福音を自分にも惜しみなく与えられる希望の物語として描くというのが信仰による知恵です。ヤコブは知恵を願いなさいと言います。この知恵が試練の中にあっても希望への忍耐を生み出します。牧会はこの希望の中での関わりです。