日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2020年10月11日 説教:森田恭一郎牧師

「悲しみ、嘆き、泣きなさい」

詩編三四・一六~二三
ヤコブ四・一~一〇

主イエス・キリストの伝道の第一声は「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ四・一七)でありました。天の国が近づいて来る。神様がご支配なさる御国が到来する。御国には、神ご自身がいましたもうて、御心が成就し、栄光が神に帰せられます。そして主イエスは、地上の歴史の中に来られて、御国の到来の徴としてご自身の御業を為さいます。その光景をマタイ福音書は、こう描きます。イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いを癒された(マタイ九・三五)。言い方を少し変えますと、それは会堂で教える教育であり、御国の福音を宣べ伝える伝道であり、ありとあらゆる病気や患いを癒す医療福祉の奉仕の営みです。最近の言葉で言えば、エッセンシャルワーク、人が生きるのに不可欠な本質的営み、それが、伝道・教育・福祉です。宣教・教育・奉仕と言っても良い。これらの業が展開している所に御国が近づいている徴がある。マタイ福音書はそのように語り、その中心に主イエス・キリストがおられます。

そして主イエスは、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた(マタイ九・三六)。のでした。憐れみ、愛を以て御業を担われたのでした。

御国の到来という理念、伝道・教育・福祉という御業の手段、そして主イエスがその愛の担い手、働き手であります。そして働き手についてこう言われました。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送って下さるように、収穫の主に願いなさい」(マタイ九・三七~)。救いを必要とする人々は多い。今日は、伝道献身者奨励日、神学校日です。伝道の献身者はもちろんのこと、教育の献身者、福祉の献身者、全て含めて、打ちひしがれ弱っている人々のために働くことを以て主に仕える御国の献身者を、主が送って下さるようにと願わなければなりません。主イエスが「願いなさい」と命じておられるからです。

 

さて、ヤコブ書を順々に読み進めています。今日のヤコブ書、悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい(ヤコブ四・九)の御言葉を味わいたいと思います。

まずは、初めの所から。ヤコブは何が原因で戦いや争いが起こるのですか(ヤコブ四・一)と問いかけます。答えははっきりしています。欲望があるからです。あなた方の間に、あなた方自身の内部にとありますから、むしろ教会に集う者たち、つまり私たちを念頭に置いています。私たちも欲望を内に抱えている。欲しても得られず、熱望しても手に入れることが出来ず、争ったり戦ったりします。それは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。自分の楽しみを求めて自分中心になっているのは世の友となりたいと願うのと同じで神の敵となっている(ヤコブ四・二~四)と、ヤコブは教会の私たちに警笛を鳴らしています。神様の敵になるな。

けれども、責めたてることがヤコブの目的ではありません。神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいて下さいます(ヤコブ四・八)。これを言いたい。神に近づくためにどうすればいいか、ヤコブは幾つかの事を挙げています。だから、神に服従し、手を清めなさい。心を清めなさい。悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。主の前に謙りなさい。

 

それで、この九節の不思議な言葉。こうではありません。喜び、晴れ晴れと笑いなさい。悲しみを笑いに変え、愁いを喜びに変えなさい……ではない。何故か? 敢えて簡単に考えるなら、自分の欲望を求め、世の友として歩むその歩みの中で笑ったり喜んだりして、それで有頂天になったり、傲慢になったりしたら、神に近づくことは出来ないからです。

神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいて下さいます。この「そうすれば」。それから、主の前に謙(へりくだ)りなさい。そうすれば、主があなた方を高めて下さいます(ヤコブ四・一〇)。この「そうすれば」。これらは条件ではないでしょう。むしろ、神が近づいて下さるのだから近づきなさい、主があなたを高めて下さるのだから謙りなさい、という前提を語る言葉です。先ほど飛ばして読んだ五節以下の箇所、聖書の引用の所です。それとも、聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのですか。「神は私たちの内に住まわせた霊を、妬む程に深く愛しておられ、もっと豊かな恵みを下さる」。それで、こう書かれています。「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」。神は近づいて恵みをお与えになる。この前提がヤコブの確信です。だからこの神を拒むことなく、この神様に近づき、神様の前に謙ればいい。道徳的にというか、信仰的に立派になって従え、それを条件にして恵みを与えると言っているのではありません。

神は近づいて恵みをお与えになる。誰に対してもです。だから受け取ればいいだけです。であるのに、神の敵となって恵みを受け取ろうとしないのが世の友。神の敵などと言うときつい言い方になりますが、例えば、こんな私は神様に相応しくありませんから恵みを戴くなんて、と恵みを受け取らない。真面目な態度ですが、人間が神様の御前で相応しくならなければならない、そのようになれると思う所が、却って傲慢な所だとも言えます。それで恵みを受け止め損ねてしまいます。

 

ですから、こんな私ですけれど、とここで真面目になって助けを求めたらいい。今日読みました詩編、主は、従う人に目を注ぎ、助けを求める叫びに耳を傾けて下さる。主は悪を行う者に御顔を向け、その名の記念を地上から絶たれる。悪を行う者としての名を消して下さる。有難いことではないですか。幸いなことです。自分の罪人としての名、自分の行った悪の結果、その記念物が残ってしまうとしたらとても辛いでしょう。続けて、主は助けを求める人の叫びを聞き、苦難から常に彼らを助け出される。主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救って下さる(詩編三四・一六~)。

主イエスは、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれたのでした。この深く憐れむという言葉、新約聖書では主イエスにだけ用いられる用語です。主イエスが深く憐れみを注がれたのは、弱り果て打ちひしがれている群衆たち。病を患う人たち。でも彼らだけではない。世の友となっている人たち、この世の権力者、本人たちは全く気付いていなくても、みんな、真の飼い主のいない羊たちです。主イエスは人々のかたくなな心を悲しまれた(マルコ三・五)のでした。世の友となっている全ての人々を見て、主イエスは、悲しみ、嘆き、涙されたのではないか。ご自身の笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えられたのではないか。私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる(ヨハネ一〇・一一)。既に十字架への決意を御心の内に秘めておられたのでした。群衆たちは弱り果て打ちひしがれているのですから、そのままに憐れみを戴いて構わない。いや、憐れみを戴かなければならない。私たちも同じです。

 

私たちは、この主の憐れみを戴いて献身者になります。憐れみを戴いて献身する資格が出来たという訳ではない。何故か献身するようにと召されて憐れみを身に受ける。憐れみなしには献身し続けることは出来ませんから。憐れみなしには、いつでも世の友になってしまいますから。

献身する。皆さんは、自分には出来ない何か特別な事と思っておられませんか。確かに特別なことですが、皆さんは既に召された献身者です。教会に集う。これは献身です。教会は召されたる者の集いですから、教会に献身する献身者の集いです。収穫の主であられる神様に収穫してもらった働き手です。この集いの中から、ある者は更に伝道の献身者へと召され、ある者は教育の献身者に召され、ある者は福祉の献身者に、そうやってみんな奉仕の献身者に召されて歩みます。

悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。自分のことを愁い、悲しみ、嘆き、泣くから、自分のために主の深い憐れみを願い求める心に変えられます。相手の事を愁い、悲しみ、嘆き、泣くから、自分が関わる全ての人のために主の深い憐れみを願い求め、祈り求める心へと私たちは柔らかくされます。祈る献身者、祈りの働き手も他の献身者を支えます。  私たちは召された献身者です。主の深い憐れみを戴き、支えられて、この恵みを分かち合います。

 

祈り

父なる神様、御国が来ますように。御国では、百%御心が成就し、百%御名があがめられます。それまでの間、御心の天に成る如く、地にも成りますように。そのための働き手、担い手を、主よ、お送り下さい。河内長野の地に置きましても、あなたが、伝道、教育、福祉の営みを始めて下さいました。河内長野教会からも伝道献身者が起こされますように。様々な働きの後継者が起こされますように。神学校の働きも支えられますように。

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