ヨナ書4章1~4節
テサロニケの信徒への手紙一5章28節
従来、宗教改革三大原則と言いますと「聖書のみ、信仰のみ、万人祭司あるいは全信徒祭司性」の三つを言うのですが、「信徒の友」9月号で、ルーテル学院大学名誉教授の徳善義和氏は「恵みのみ、信仰のみ、聖書のみ」と記して「全信徒祭司性」を抜いて代わりに「恵みのみ」を新たに掲げています。ルターの認識をこう記しています「人間の救いにおいて働くのは、全てイエス・キリストにおける神御自身であって、人間は自ら何かを行うのではなく、ただひたすら、神の恵みの働きを受けて、救いに至るのだという理解です。これを要約すれば『恵みのみ』から『信仰のみ』へということです」。それでは全信徒祭司性はどこへ行ってしまったのかというと、続けてこう記しています。「この『信仰のみ』に、善い行いをはじめとする信仰者の生き方の全ての展開の可能性が含まれています。『義人にして同時に罪人』とか『全信仰者の祭司性』の問題もこの線上で論じ理解すべきでしょう」。という訳で「全信徒祭司性」は「信仰のみ」の範疇に置かれています。
今日は「恵みのみ」について心に刻みたいと思います。そして今日の結論は先程の文章で言いますと「ただひたすら、神の恵みの働きを受けて、救いに至るのだ」ということです。人が救われるのは恵みによるという事です。エフェソ書2章8節(p.353)「事実、あなた方は恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力にいよるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、誰も誇ることがないためです」。ここに「恵みにより、信仰によって救われました」とあります。この文章ですと、救われたのは「恵みによる」のか「信仰による」のか分かりにくいです。ギリシャ語を直訳すると、「あなた方は恵みにより、信仰を通して救われました」となります。救いは恵みによるのです。それを信仰を通して受けとります。「ただひたすら、神の恵みの働きを受けて、救いに至る」訳です。信仰は恵みを受け取るためのホース、空洞の管のようなものだということを思いおこして戴きたい。信仰には実体はない。救いの実体があるのは「恵みのみ」です。恵みいよって救われるのです。「こんな立派な信仰を持っています」なんて信仰さえも誇ってはいけない。救われるのは恵みによるのです。
さて今日は旧約聖書からヨナ書を読みました。
ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒りました。何が不満で怒ったのかというと、神様がヨナに告げたように「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」と宣べ伝えたのに、それを聞いたニネベの王様や都の人たちが自分の業や悪の道を離れたので、神様が思い直されて宣告した災いをくだすのをやめられた。ヨナはそれが不満で怒った。
それで2節「彼は、主に訴えた。『ああ、主よ、私がまだ国にいました時、言った通りではありませんか。だから、私は先にタルシシュに向かって逃げたのです』」。「ああ、主よ」というヨナの言葉。一節の主の言葉の「さあ、ニネベに行って」の「さあ」に対応する「ああ」です。でもこの対応は、神様の御心に対して自分の思いが遠く隔たっている時に発してしまう「ああ」という言葉です。
もっとっもヨナはこう言います。「私には、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です」。
ヨナは、悔い改めたニネベの人たちに恵みと憐れみをお与えになる神様なのだと分かっていた。「あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方」、これはヨナ書にける信仰告白の言葉であると言ってもいい。であるるのに、それに対して「ああ」と言う。そこに神様とヨナの正に隔たりがある。
何故ヨナは、神様がニネベの人たちを慈しみ、恵みを与えて下さったことを喜べないのか。なぜ「それは良かったですね」と言えないのか。悪いことをしたら罰を受けなばならないと考えて、恵みの世界があることに心を開くことが出来ないのか。そして最後には、「主よどうか今、私の命を取って下さい。生きているよりも死ぬ方がましです」と駄々をこねて恵みを否定し怒りを表すのか。
主は言われました。「お前は怒るが、それは正しいことか」。
神様にとって、正しさ、正義、義というものはどういうものであるのか、大きな問いかけです……。その正しさとは、まず、どれほど罪を犯しても、悔い改める者に対して救いを与えるということです。 主イエスがヨナに言及しておられるます。マタイ12章38節以下、(p.23)「~ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである」。主イエスも悔い改めた者への救いを語っておられます。でも更に、ここに「ひと言」、でも聞き逃してはいけない「ひと言」を語ります。「ここに、ヨナに優るものがある」。
ヨナ書に戻りますと、「お前は怒るが、それは正しいことか」と神様はお問いになりました。それは罪を裁く義であるよりも、プレゼントして下さる義である訳です。それをヨナ書も語っています。途中飛ばして、神様は終わりにヨナに向かってこう仰いました。10節「すると、主はこう言われた。『お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうして私が、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから』」。
ここで神様は、なぜ災いをくださなかったのか、その理由を述べておられます。それは「惜しまれた」からです。す言うことかと言いますと、それはニネベの人たちが悔い改めたからではない。「どうして私が、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから」。右と左を弁えたからではない、右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜を惜しんだからです。それが恵みなのです。そのようにしてヨナに優るものとして、十字架の主イエスがおられるのです。恵みの与え主として主がおられるのです。
テサロニケ書をパウロは次の言葉で結びました。「私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなた方と共にあるように」。日本語では「あるように」と訳しています。直訳すると「私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなた方と共に」。私はこう読むべきだと考えます。これは「あなた方と共に恵みがある」という使徒の宣言の言葉です。ヨナに優る主イエス・キリストの、正に恵みがある、という宣言です。この恵みの宣言を以て使徒パウロはテサロニケ書を書き終えたのです。