日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2018年4月1日 説教:森田恭一郎牧師

「思い出してごらん、主の御言葉を」

レビ26・45
ルカによる福音書24章1~12節
イースターおめでとうございます。イエス・キリストが死人の中から甦られました。
この出来事は人間の側からは想像も出来ないことでした。それで、婦人たちは墓へ出かけて行きました。主イエスが十字架にかかられ死んでしまわれてから金-土-日と足掛け三日目の週の初めの日の明け方早くのことです。死んだ主イエスのご遺体の所へと行きました。でも、思いがけないことにご遺体は墓にはありません。墓の中をぐるりと見まわしたに違いない。でも見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、とあります。
そうしたら輝く衣を着た二人の人が現れます。復活の記事はみんなそうなのですけれども、復活の命に出会うというのは、向こう側から近づいてきます。この日も天使たちが現れました。今日の聖書個所は復活の主イエスはまだ登場しませんが、それ以降の所を読んでいきますと、エマオ途上の二人の弟子に主イエスの方から近づいて来て下さいます。
今朝ここに参りましたら、2月に生まれたばかりの太喜君が来てくれていました。思えば、命というのは、自分が考えて自分で造り、自分で生まれようとして生まれて来る訳ではありません。気が付いたら自分の命があり、神様の方から授けられていた。復活の命も、私たちが望んだから与えられたのではない。私たちの思いを遥かに超えた、向こうの方からやって来て「復活なさったのだ」、この知らせを聞きます。

ただ今日のルカ福音書二四章で一つ私たちに出来る大事なことがある。それは「思い出す」ことです。二人の天使が言いました。「何故生きた方を死者の中に捜すのか。あの方はここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられた頃、お話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」。そこで婦人たちは主イエスの言葉を思い出したのでした。
今日、この「家族友だち礼拝」に来ておられるお子さんで、この春、保育園あるいは幼稚園を卒園した方はいますか。そこでみんなが歌った歌があります。卒園式で歌ったでしょう。この歌です。
♪いつのことだか、思い出してごらん。
あんなこと、こんなこと、あったでしょ。
嬉しかったこと、面白かったこと、
いつになっても忘れない♪
みんな思い出します。卒園式の時には。そうやって思い出すことを大事にしています。

けれどもこのイースターの日、天使たちが思い出しなさいと言った時、それは、昔、あんなことがあった、こんなことがあった、良かったね、とただ昔のことを思い出すというのとは違う。主イエスの言われた御言葉を思い起こすことによって、今起こっていることを思い起こす。そうか、主イエスは復活なさるのだ、そうだ、あの方は墓にはおられない、復活なさったのだ。それは嘘ではないのだと、信じられるようになる。そして思い出したらそのままではいられない。婦人たちは、墓から帰って十一人と他の人皆に一部始終を知らせます。

思い起こすということを、もう一つ考えたい。「あっ、忘れた」ということがあります。私たちは思い出さなければ忘れたままになる。でも神様は思い出さないことはない。レビ記二六章四五節、「私は彼らの先祖と結んだ契約を、彼らのために思い起こす。彼らは私がその神となるために、かつて国々の目の前でエジプトの国から導き出した者である。私は主である」。神様は主であり、彼らの神であられます。故にご自身の契約をお忘れになることなく、思い起こされる。
私たちが忘れたというのは、一度知っているからこそ忘れることが起こる。全然学んでいないこと、聞いてないことを、忘れようがありません。それは初めから知らなかっただけのことです。そして聞いていたことを思い出してみると、そうだった、となり、今日の箇所でも、主イエスは甦られるのだ、と思い返す。そして主イエスが甦られるということは私たちもいずれ甦らされるのだという希望を持つことになります。

先日の中高生の修養会で、講師の先生がある歌を紹介して下さいました。皆さん知っている曲。
♪新しい朝が来た。希望の朝が。
喜びに胸を開き、大空仰げ♪
講師の先生が、これは随分キリスト教の歌ですよね、と仰るのです。「新しい朝が来た、希望の朝が、喜びに胸を開き、大空を仰げ」。これはイースターにふさわしい歌詞だと私も思いました。これは何の曲かというと、ラジオ体操の歌です。皆さんの中にも、ラジオ体操のこの曲を聴いて体操している方いらっしゃるのではありませんか。いいですね。「新しい朝が来た、希望の朝が」と歌いながら、体を動かす。これも私たちがそこへと行くのではない。朝が来た。向こうから来ます。そして希望を戴く。

復活の日の朝、そうとは知らない婦人たち、お墓に参りまして、お墓の中に入って見回した。その後やって来たペトロは一二節「身をかがめて中を覗いた」。それがいわば死の世界に対する私たちの姿勢です。でも復活の朝、向こうから命が来る、私たちはどうなるか。新しい朝が来た、希望の朝が。喜びに胸を開き、大空を仰げ。身をかがめるのとは正反対の姿勢です。御言葉を思い出したら御言葉に思いを開き、主イエスを仰ぐ。これが復活の朝の私たちの姿勢です。

本日、お二人の信仰告白式を執り行います。幼児洗礼を受けています。クリスチャンホームに育ち、それで神様がいるというのは当たり前だそうです。改めて「私は信じます」と告白するきっかけがないし特別な回心の経験もない。でも、そのお二人が、信仰告白の決断をする。何故か。まず、神様がお忘れになることがないからです。そして、今回きっかけは二つ。お二人の間で相手が信仰告白しようかどうしようかと迷っているということを知って、そういう相手の存在がきっかけとなって自分も一緒に考え始めたというのです。もう一つは、この教会の礼拝で聖餐式がある。信仰告白して聖餐式の意味が分かっている者でないと自分は与れない。二つとも自分の外から問いかけてきたことです。それが決断へと導いてくれた。

思えば聖餐式で大事なことは何かというと、イエス・キリストの十字架の出来事を想起、思い起こすことです。そうだ、主イエスが私たちの罪を贖うために十字架に架かって下さったのだと思い起こす。そして過去だけでなく、これからのこと、私たちも甦らされて天上の食卓に与る希望、私たちの人生は死で終わるのではない、永遠の命へと招かれているのだという希望が開く。
思い起こすためには、聖餐式の意味を前もって知っておくこと、信仰についても日頃から聖書の言葉に触れておくことが必要です。触れているから思い起こせるのです。教会に集い、御言葉に触れる。その時には分からなくても、小さなお子さんには分からなくても、構わない。でもとにかく聞いていれば、後になって、そう言えばと、思い起こすことが出来る。そして私たち一同、主イエスを仰ぎのぞみたい。

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