日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2020年7月26日 説教:森田恭一郎牧師

「心の内に御言葉が」

申命記二七・九~一〇
ヤコブ一・一九~二一

説教題を「心の内に御言葉が」と致しました。これは、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい(ヤコブ一・二一)から採ったものです。今日はこの御言葉を特に味わいます。ただそれに先立ち、前半の聖句にも目を向けなければなりません。私の愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。誰でも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい(一九節)。

 

話し合いは、それぞれが、言い放しでは本当の話し合いにはなりません。特に、相手の間違いを直そうとする時など、一方的になりやすい。更に、相手が余り耳を傾けようとしない時など、怒りがこみあげて来がちです。ヤコブは怒りを否定はしませんが「怒るのに遅いように」と言います。一般的に言って、話し合うより聞き合う方が有意義な会話となります。そのためには「聞くのに早く、話すのに遅く」するのがいいですね。

ヤコブはしかし、単なる話し合いの仕方を語っているのではありませんね。人の怒りは神の義を実現しないからです(二〇節)。ヤコブは神の義が実現するように語ることを求めています。それでヤコブは続けて、だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り(二一節前半)と勧めます。マタイ福音書一五章に主イエスがこう語っておられます。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである(一五・一八~)。ここに怒りへの言及はありませんが、本当に相手を思ってではなく、ただ感情的になって怒っているだけなのなら、それは心から出て来る怒りで神の義を映し出す御心に沿う怒りにはなっていません。心から出て来るこれらのものを捨て去ることを主イエスも語っておられるようです。

 

しかし、捨て去る、と言っても私たちに容易に出来る事ではありません。そこで改めてヤコブが注意を向けさせるのが、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい(二一節後半)。植えることについて二ヶ所、主イエスの御言葉に聞きたいと思います。

一ヶ所目は先ほどのマタイ福音書一五章の所で、「私の天の父がお植えにならなかった木は、全て抜き取られてしまう」(一五・一三)。天の父なる神様がお植えにならなかった木に実となるのが、悪意、殺意、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、悪口などです。それらを実らす木はいずれ抜き取られます。逆に、父なる神様が植えられた木、それは豊かな実をもたらします。この木と実りを大事に受け取れば良い訳です。その木が、心に植えられた御言葉です。そして御言葉からの実りがある。

 

もう一ヶ所、ルカ福音書一三章です。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか』」(一三・六~七)。いちじくの木を植えたのは主人です。ブドウ園の主人、父なる神様のことです。

神様が御言葉の木を私たちの心に植えて下さいました。御言葉ですから、御言葉を神様は語り、私たちは御言葉を聴く。そうやって心の内に御言葉の木を植えて下さった。これは旧約来同じです。イスラエルよ、静かにして聞きなさい。あなたは今日、あなたの神、主の民とされた。あなたの神、主の御声に聞き従い、今日私が命じる戒めと掟を行わねばならない(申命記二七・九~一〇)。父なる神様は、イスラエルをご自分の民、主の民として下さり、御声に聞き従い、戒めを守り得る者として下さった…。でも実がならない。

実のならない木は切り倒せ。そこで園丁、キリストのことです。「園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいて下さい。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでも駄目なら、切り倒して下さい』」(一三・八~九)。「切らないで欲しい。父なる神様が植えて下さったのだから切る訳にはいかない。私が責任をもって肥料をやり実がなる様に世話をしますから」。キリストご自身が十字架にかかって注いで下さるキリストの命という肥料です。そしてペンテコステには教会を建て、御言葉を聴き続ける木として、私たちを植え直して、実がなるようにして下さった。

皆さんは、神様が植えて下さった木です。神の民です。キリストがご自身の命を注いで下さったのですから枯れることはない。更に教会で御言葉を聴き続けます。それで、まず、からし種ほどの信仰が与えられ、主の民とされていることに気付きます。ヤコブが終わりに言います。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。そして日頃の生活で御言葉によって生かされているのですから、実がなります。その実というのは、ただ善い行いをしましょうという勧善懲悪の勧めに基づくものではありません。キリストがご自身の命を注いで下さったことに基づく木の実です。

その実は、皆さんが救われた者として生きる所に現れてきます。相手に救いが伝わる実です。自分を振り返ると小さくても実がなっていますね。

 

私たちの心の中には、神様が植えられたのではない木もあります。厳然としてあります。終末には抜き取って戴けるでしょう。それまでの歴史に在っては、だから、父なる神様が植えて下さった木を大事にします。キリストが命を注いで下さった肥料が与えられている、心に植えられた御言葉の木をこそ、大切に育てて行かなければなりません。それは自覚して為すべき育みです。

毎週の礼拝に集い御言葉を聴き、聖書に親しみ、御言葉を受け入れる。信仰を育んでいきます。そしてまた、相互牧会の日々の交わりは生活の中で、御言葉の木を切り倒さないで、自分の救いを確認し、また相手には救いが伝わるようにして、育んでいく訓練の営みになるに違いありません。