日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2022年8月7日 説教:森田恭一郎牧師

「復活の希望の内に人生会議」

詩編 九〇・一~一七
ローマ 五・一~二

今日は、神との間に平和を得て(ローマ五・一)、このみ言葉を心に留めたいと思います。この世界の平和なき現実を思うと、神との間の平和を語ってもあまり意味が無いのではないかと思われるかも知れません。でもそうではありません。神との間に平和があることが、平和を実現していくことに不可欠だと言えるでしょう。もちろん私たちは、復活の希望を以て生きています。

今日はもう一つ、思い起こしておきたい言葉があります。それは「謝罪と赦罪」です。あなたは謝って下さいという謝罪と、あなたの罪を赦しますという赦罪です。

 

さて、先週は人生会議を巡っての講演会を開催しました。人生会議とは、自分が希望する医療や過ごし方など、前もって話し合って信頼する人と共有して、その時に備える営みで、前回は、医療とケアをよく知っておられる在宅看護経験豊かな看護師と、任意後見や遺言書の必要性をよくご存知の行政書士また社会福祉士のお二人にご講演戴きました。具体的な話で大変有意義であったと思っております。戴きました感想文の中に「私は以前の教会で、アトピーについて話を聞いたが、こうした講演は教会の役割として大事ではないかと思う」というお声を戴きまして、主催者側としては教会の発信としても良かったのかなと思います。ただ、直接信仰に関わる話ではないのでこんな感想もありました。「この会の終わりに、キリスト教としての人生会議のお話しも牧師からあったら良かったかなと感じました」。

この感想を読みまして…、皆さんは何を考えますか。もし自分が、独居老人になって、あるいは子どもも遠くにいて施設に入居になったとき、信仰の話を共有する人はいますか。どのように信仰の希望の内に日々の人生を送り、また全う出来ますか、という課題です。先週の説教で言うなら、教会があのバルティマイに「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」(マルコ一〇・四九~)、と彼を主イエスの御前に誘い、主イエスの問かけ「何をして欲しいのか」を共に考えるということ。主イエスとの関わりの中で自分の人生で何をしたいのか、どうありたいのか、そして人生の意味を考えることが出来るようにしておくということです。すなわち、自分とその人生を「神との間に平和を得て」という光の中に見出すようにしておくということです。本人の視点から言うと、教会の交わりを用いること。それは本人の自覚のことであり、教会の相互牧会のシステムのことでもあります。

人生会議、それはこれまでの人生を振り返り、これからの自分らしい自分の願う人生を考える、それを必要な人と一緒に行うことです。

 

話は飛びますが、昨日は八月六日、明後日は八月九日。自分の人生の意味を考え生き続けた一人の被爆者、核廃絶を訴え続けた方のことを紹介したいと思います。坪井直(つぼいすなお)さん。昨年の秋、九六歳で故人となられました。先日その方のテレビを観ました。八七歳の時に、広島に原爆投下した爆撃機の復元展示された博物館に行くと、もの凄い成果を上げたことを誇らしく謳っていたが、原爆の悲惨さ、どれだけの犠牲者が出たかということすら何も書いていない。憎しみや怒りがこみ上げてくる気持ちだった。でもその時にそこにいたアメリカ人からこう言われた。「戦争で傷ついたのはアメリカ人も同じだ」。その時以来、こう考えるようになった。憎しみの感情は消えないが、それを乗り越えないと平和を願う気持ちは伝わらない。アメリカのオバマ大統領が広島を訪れた際、坪井さんは言葉を交わす機会を得て、アメリカに謝ってもらいたいと謝罪を求めはしないでこう言われました。「人類の犯した間違いを乗り越えて我我は未来に行かなければならない。オバマさんがプラハで宣言した『核兵器のない世界』、私たちも行きますよ」。詩編九〇編の終わりに、私たちの手の働きを、どうか確かなものにして下さい(詩編九〇・一七)とありますが、坪井さんは「核兵器がなくなるまで、ネバーギブアップ」と笑顔で訴え続けました。

 

今日の旧約、詩編九〇編、この詩人も人生を一生延命考えています。今日は聖句一句一句を丁寧に見ていく余裕がありません。永遠の神様を前にして、自分の人生がいかに塵のように儚く、早く過ぎ去っていくか、神の御前に自分がどれほど自分が罪深いか、思いを馳せています。更に、御業を仰いで神様の喜びが自分たちの上にあるように。そこから自分たちの手の働きを確かなものとして欲しいと祈り求めています。

先ほど、誤ってくださいと謝罪を求めることはしない坪井さんの姿勢をご紹介しましたが、この詩編も言葉にこそしていませんが、神の赦しの御業を信仰の内に見出しています。他の詩編にもこういう聖句がありました。主よ、あなたが罪を全て心に留められるなら、主よ、誰が耐え得ましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです(詩編一三〇・三~四)。罪の赦しを、その赦罪を語っています。

そしてローマ書は語る。このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得て(ローマ五・一)いる、と。義とされたのです!

 

神様は私たちの罪に御怒りをお持ちです。でもそれを乗り越えられた。神様は謝れと謝罪を求めるどころか、罪を赦して下さる。更に何と義として下さる。神の御業がそうであるならば、私たちは尚更、相手に対する憎しみを越え、謝って下さいという謝罪の思いもを乗り越え、間違いは間違いという事柄は踏まえつつも、相手の罪を赦す中に平和を構築して行くことを、神様は求めておられる。この神との間に打ち立てられている平和の故に、私たちも地上の営みにおいて平和を分かち合うのです。歴史の完成の時には、お互い義としあうことへと導かれるのでありましょう。キリストの十字架の愛の故であります。

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