日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2021年1月31日 説教:森田恭一郎牧師

「御子により、神は語られる」

歴代誌下三六・一一~一六
ヘブライ  一・一~二

先週、ヤコブ書を読み終えました。その説教で多くの罪を覆う(ヤコブ五・二〇)執り成しについて語りました。今日、このヘブライ人への手紙を選びましたのは、キリストが罪人を神の御前に完全に執り成す大祭司であるということを語っている文章だからです。執り成しについては次週改めて味わいますが、今日はそれに先立ってヘブライ人への手紙の最初の所を読みました。このキリストを仰ぐ姿勢を整えたく思います。

神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くの仕方で先祖に語られたが、 (ヘブライ一・一~二)。神様は私たちに語りかけて下さいました。例えば、イザヤが預言しました。見よ、初めのことは成就した。新しいことを私は告げよう。それが芽生えてくる前に、私はあなたたちにそれを聞かせよう(イザヤ四二・九)。聞かせようと言うのですから、信仰の耳を澄まして聴き取らねばなりません。あるいはまた、主の言葉を告げる預言者エレミヤがいました。主なる神様は御自分の民と御住まい憐れみ、御使いを遣わされた(歴代誌下三六・一一、一五)のでした。

 

預言者たちによってというのはしかし、新約の時代にはもう既に完了しその時は満ちました。この終わりの時代には…、これらの旧約の日々の終わりの上に、御子によって私たちに語られました。クリスマスに御子がこの地上に、歴史の中に現われて語って下さいました。もちろん私たちは御子以前の旧約聖書からも聴き取ります。でもそれは、御子を待望しそのように御子を証しする仕方で旧約聖書から聴き取ります。やはり御子を通して聴きます。御子によって語られたのですから、私たちは、御子によって聴き取らねばなりません。耳を澄まして聴くというのは、私たちも御子によって聴き取るということです。耳を澄まして御子によって聞く。これが今日の主題です。

 

ところで、あるフレーズ、表現があります。「音楽は魂の言葉である」。口で語る言語では言い表せない、言い尽くせない魂の言葉を音楽は表現しているということでしょう。国境を越えて音楽そのものが人の魂を揺さぶる、感動させることがあります。魂の言葉というのですから、私たちの心の内には魂の言葉がある。それを人間の言語は表現しきれない。それを音楽が表現し、私たちの魂に共感や共鳴を引き起こす。

私たちに魂の言葉があるなら、神様がお持ちの言があるに違いありません。その神の言は、人間の言語では表現しきれないのです。この神の言を、御子、イエス・キリストが体現しています。また、人間の言語で言い表す説教の他に聖餐式があります。キリストが制定されました。それはキリストが体現しておられる神の言を現すためです。

 

私たちは信仰告白において「主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証しせらるる唯一の神は…」と告白します。これは勘違いしてはいけません。主イエス・キリストが唯一の神を啓示するけれども、単に神を啓示するだけでキリストご自身は神ではない、というのではありません。キリストご自身が神です。キリストご自身が神の本質の完全な現われ(ヘブライ一・三)であって、神ご自身です。また、神は愛であると言いますが、キリストはご自身の他にある神の愛を啓示して伝えたというのではなく、キリストご自身が神の愛そのものです。それで、神の言はこの御子キリストによって聴き取らなければなりません。

 

神は、この御子を万物の相続者と定め(ヘブライ一・二)。御子、キリストは万物の相続者ですから、万物はキリストのものです。私たちもキリストのものです。キリストのものと定められているという事は、キリストはご自分のものである万物をお忘れになったりお見捨てになったりはしない、御自分のものなのだから、大切にして下さるということです。私たちのこともです。

そしてまた、御子によって世界を創造されました。私たちは何か勘違いしているかもしれません。創造主は父なる神様なのではないかと。そうではない。御子も創造主です。また聖霊なる神様も創造に関わられたと信じましょう。それだからこそ三位一体です。

創造するというのは、ただお造りになるということに留まりません。天地創造の前に、神は私たちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました(エフェソ一・四)。エフェソ書がよくぞ、天地創造の前のことまで思いを向けることが出来たものだと感心します。これは著者が、キリストと出会いキリストによって神の言を聴き取ったからです。

神が天地創造の前からキリストにおいて私たちを愛しておられたということは、キリストが十字架におかかりになる、あの贖罪愛なしには、思いが至らないでしょう。そしてキリストにおいて私たちに啓示された天地創造の間からの愛は、私たちが母の胎に宿り生まれてからの後の、私たちの善し悪しに左右されません。キリストが、お前のことを愛することにした、と天地創造の前からお決めになり、それで愛される者として私たちは命与えられているからです。

 

ここで思うべきことは、ヘブライ書の、神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されましたという言葉は、天地創造の前、永遠の初めから始まる、神の世界の救いの物語であるということです。ですから、私たち皆の人生は、この永遠の初めに既に神様のご計画の中に覚えられているわけです。私たちの人生の物語は、実はもうここから始まっている。これはそのように教わらないと気付かないことです。

これは例えば、生まれながらに障がいを負っているお子さんでも同じです。親御さんに、いや誰にでも知っていて欲しい。障がいを負って生まれてきたこのお子さんもまたは、天地創造の前から神様に愛され覚えられてきた。更には、この子にはこれから神の御業が現れるのだ、と。このことは、教えられて分かる。キリストによってこそ聴く事の出来る事実です。

先ほど「音楽は魂の言葉である」、と紹介しましたが、本当に私たちの魂に私たちの言葉があるとするなら、それは、天地創造の前の「私はお前を愛するぞ」という神の救いのご計画を教えられて「そうだったのですね。知りませんでした。本当に有難いことです」と受け入れる。そこで魂の中に生じてくる魂の言葉であると言えるのではないかと思います。

ところが、私たちは通常は生れてからの事を考えますから、生まれてからの人生の物語を考える。人生には人間の罪や弱さ故に生じた思いがけない出来事が起こります。重い病になったり事故に遭って大きな怪我をしたりして想定外のアクシデントに巻き込まれます。自分の思い描いていた人生が中断されてしまいます。その時に人間の側の悲しみや嘆きや怒りなどに振り回される。そして、永遠の初めから始まっている神様の救いの物語を忘れる。キリストを見失う。キリストを抜きにして神様を思い、そして人生を考えてしまう。

 

神の救いの物語を見失わないで、キリストにこだわる。そのために不可欠なことは何か。それは、配信によることも含めて教会に集い、キリストの御前に礼拝をささげることです。また教会の聖徒の交わりの相互の牧会の中で執り成しの祈りに覚え、覚えられることです。キリストを仰ぎ見ることが出来ますようにと祈ります。すると、キリストが既に私たちを覆い包んでいて下さったのだと、気付きます。

そうやって毎週、礼拝をささげ、キリストの下に交わりが起こります。そのようにキリストによって神の言葉を聴き取る時、キリストを見失う人間の罪の業が今度は、キリストの恵みによって中断され、私たちの人生が神の救いの物語に入れられます。