箴言 一・七
ヤコブ三・一三~一八
今日は、「上から出た知恵」(ヤコブ三・一七)に思いを向けます。四月末以来、平和を念頭に説教してきました。関連する聖句と言われて、最初に思い起こす聖句は恐らく、主イエスの山上の説教、平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる(マタイ五・九)ではないかと思います。今日初めて招きの言葉に引用致しました。この聖句によると、平和は実現していくものです。棚からぼた餅のように何もしなくても与えられるのではない。平和は、歴史の中に意識して実現していかねばならないもの、ということです。
今日のヤコブ書も、平和を実現する人たちと語ります。そして平和を実現するには上から出た知恵が必要であることを語ります。上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。義の実は、平和を実現する人たちによって、平和の内に蒔かれるのです(ヤコブ三・一七~)。その反対は悪魔からでたものです。しかし、あなた方は、内心妬み深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らって嘘をついたりしてはなりません。そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。妬みや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです(ヤコブ三・一四~)。
ここでは上(=神)から出た知恵と、下(=地上の者、この世のもの、悪魔)から出た知恵を対比しています。清教学園の建学精神の言葉を思い起こしますね。神なき教育は知恵ある悪魔を作り、神ある教育は愛ある知恵に人を導く。先日の説教でも引用しましたが、その時には、戦前の神なき教育は軍国主義教育になり、人の命をないがしろにする平和と生命を壊す結果になった。この建学理念はその反省を踏まえて、戦後設立の意義がある清教学園の理念であることに思いを向けました。
今日は、愛ある知恵、上から出た知恵に思いを向けたい。知恵と言えば思い浮かぶ聖句は、主を畏れることは知恵の初め(箴言一・七)。ヤコブ書はその知恵がある人は、知恵に相応しい柔和な行いを自分生き方に示す(ヤコブ三・一三参照)と語ります。また、上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和(口語訳では平和)で、優しく、従順なもの。憐れみと良い実に満ち、偏見はなく、偽善的でもない。その知恵がある平和を実現する人たちによって義の実は平和の内に蒔かれる(ヤコブ三・一三~参照)。知恵は知恵のまま留まらないで義の実、平和をもたらす。上から出た知恵、愛ある知恵に人を導き、義の実、平和を実現するためにどうするかが課題です。
ある詩(ポエム)があるのを見つけましたのでご紹介したいと思います。吉野弘の詩です。
生命は、自分自身だけでは完結できないように造られているらしい。花も雌しべと雄しべが揃っているだけでは不充分で、虫や風が訪れて、雌しべと雄しべを仲立ちする。生命はその中に欠如を抱き、それを他者から満たしてもらうのだ。
世界は多分、他者の総和。しかし互いに欠如を満たすなどとは知りもせず、知らされもせず、ばら蒔かれている者同士。無関心でいられる間柄。そのように世界がゆるやかに構成されているのは何故?
花が咲いているすぐ近くまで虻の姿をした他者が光をまとって飛んできている。私もある時、誰かのための虻だったろう。あなたもある時、私のための風だったかもしれない。
平和を実現する人たちは、成る程、純真、温和、優しさなどの柔和な行い、義の実をもたらすのですが、それは、柔和さなどの道徳性を自分自身で持ち完結しているからではないことをこの詩は気付かせてくれます。柔和は他者の重荷を負うことで、その人自身で完結しません。そもそも、上から出た知恵ですから、人間自身では実現することは出来ない。自分の存在も、そして平和も、お互い他者によって、補ってもらってこそ完結する。
主イエスがこう仰いました。私は柔和で謙遜な者だから、私の軛を負い、私に学びなさい(マタイ一〇・二九)。この主イエスを仰ぎ、主イエスに支え導いて戴いて、自分の足りない所、弱さを補ってもらってこそ、平和で柔和な行いへと生きる姿勢が生まれてきます。