詩編 八五・ 九~一四
マルコ 四・三五~四一
平和をめぐって聖書はどう語っているのか、今日は、混沌と対比しながら平和の御言葉を味わいたいと思います。
聖書の冒頭は、この言葉で始まります。
「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。
『光あれ』。
こうして光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である」(創世記一・一~五)。
混沌の中に、神は「光あれ」と言われ、光は光、闇は闇、という秩序をお造りになりました。思えば、戦争は混沌、平和は秩序です。聖書は冒頭にこの平和の秩序を力強く語っています。
高校時代に、こう教わった事を思い起こします。「第二次世界大戦は帝国主義で始まり、平和主義で終わった」と。平和の秩序を求めて国際連合を設立し、国々や人々に人権意識を自覚させ、宣戦布告や子どもを初めとする民間人への無差別攻撃を国際法違反としてきた……はずです。
人類は昔から混沌の世界をもたらしてきた。この創世記第一章の記事は、イスラエルの国が崩壊し、主だった人々がバビロン捕囚の中にあったことを背景にして描かれていると言われています。そのような混沌の中で、聖書は秩序を語り続けてきました。平和への神様の意思、ヴィジョンを語り続けてきました。今日の詩編は語ります。宣言を聞き取っています。私は神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます。御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に、彼らが愚かな振る舞いに戻らないように(詩編八五・九)。人間は繰り返し愚かな振る舞いに戻ってしまう。でも、それにも増して神が望んでおられるのは平和です。
この詩編の記者は、平和な時代に平和の宣言を聞き取ったのではなかった。この時代に人々は、私たちの救いの神よ、私たちのもとにお帰り下さい。私たちのための苦悩を静めて下さい(詩編八五・五)と叫ぶしかなかった。その中で、平和の宣言を聞き取る。我々が願い求める以前に、神ご自身が、平和を宣言しておられる、平和のヴィジョンを描いている。
この詩編は、平和を将来の約束のこととして語っています。現実は未だ混沌の中にあります。その限りでは、平和は絵に描いた餅でしかないようでもあります。それで私たちも実際の戦争状況を前にしては無力であり無意味だということになるでしょうか。いいえ、ペンは武器よりも強し、です。世論の育成ということだけを意味するのではない。神の平和の宣言がある。神が平和を宣言しておられる。この平和の宣言を聞き取るからこそ、叫んでいいし、声を上げることが出来る。ペンを取ることが出来る。平和に向けて勇気づけられる。それは世界を創造し、歴史を導く神が平和の神だからです。旧約の民は、混沌の中で、この秩序と平和の神を見出し、その導きを信じた。宣言のみ言葉を聞き続けた。私たちもそのみ言葉そのものに耳を傾けたい。
主を畏れる人に救いは近く、栄光は私たちの地に留まるでしょう。慈しみと真は出会い、正義と平和は口づけし、真は地から萌えいで、正義は天から注がれます。主は必ず良いものをお与えになり、私たちの地は実りをもたらします。正義は御前を行き、主の進まれる道を備えます(詩編八五・一〇~一四)。
慈しみ、まこと、正義、平和。四つの用語がここにありますが、これは聖書の神の属性、神様の神様らしさを告げる言葉です。混沌の中で救いを願う人々にとって、神の平和の宣言を聞き、神様が神様らしくいて下さることを思い起こすのは、どれほど心強いことでしょうか。
今日は、新約聖書から福音書の記事を読みます。
湖の嵐に翻弄され溺れ死んでしまいそうになる場面、まさに混沌の状況です。それが凪になります。
その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。他の舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、私たちがおぼれても構わないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。弟子たちは非常に恐れて、「一体、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った(マルコ四・三五~四一)。
今日ここでご紹介したいのは、主イエスの、起き上がって風を叱るそのお言葉です。「黙れ、静まれ」。口語訳では「静まれ、黙れ」と順序が逆さまになっているのですが、「静まる」はギリシャ語でも静まるの意味の言葉です。でも、英語の幾つかの聖書には、静まれではなく、Peaceと訳している聖書があります。なぜ「平和になれ」と訳すのか調べられませんでしたが、なるほど、とも思います。混沌の嵐の中に、主イエスは平和を造り出します。
主イエスが、平和を宣言し、かつ平和を体現なさった。この主イエスを前に弟子たちは「一体、この方はどなたなのだろう」と主イエスのご人格、ここに現れた主イエスらしさに驚く訳です。でも弟子たちも分かりました。混沌の死の世界から起き上がられて、平和を宣言し創造する神ご自身、神の御子であられるのだと分かりました。私たちも弟子たちと共に、この主イエスに信頼し、根気強く希望を持ち続けたい。そして平和の形成を願って祈り続けるのであります。