出エジプト三四・四~九
ローマ 五・一~一一
聖書が証し私たちの信じる事真(まこと)の神は
どのような神であられるのかを味わいます。先週
は「愛と平和の神」(Ⅱコリント一三・一一)の聖句
から味わいました。今日は、神様がご自身の御名
を宣言された聖句です。「憐れみ深く恵みに富む
神、忍耐強く、慈しみと真(まこと)に満ち、幾千
代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す
神」(出エジプト記三四・六~七)。また、主はその
名を熱情と言い、熱情の神である(同一四節)とも
言われました。
神様がどのようなお方であるかを示す、旧約聖
書に何度も記されるこの聖句は、見比べてみると、
重心点が恵みに置かれていくようです。その例を
一つご紹介します。出エジプト記三四章のこの箇
所と比べます。同じ出エジプト記二〇章五節の後
半の所です。私は主、あなたの神、私は熱情の神
である。私を否む者には、父祖の罪を子孫に三代、
四代までも問うが、私を愛し、私の戒めを守る者
には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。十誡の所
ですが、こちらに比べると先ほどの三四章の所は
罪を問うのが慈しみを与える記事より後に来て、
強調点が慈しみの方に置かれています。また、十
誡の方は慈しみを与えられるのは、私を愛し、私
の戒めを守る者にはという条件がついていますが、
三四章の方は条件がついていません。
何故、恵みを強調するこういう変化が起こった
のかと言いますと、それは三四章の記事は、金の
子牛の事件の後で、民の罪深さ頑なさが一層明ら
かになった後だからです。人は恵みによってしか
救われないのです。
それで、モーセがしたことは執り成しです。モ
ーセは急いで地に跪き、ひれ伏して、言った。
「主よ、もし御好意を示して下さいますならば、
主よ、私たちの中にあって進んで下さい。確かに
頑なな民ですが、私たちの罪と過ちを赦し、私た
ちをあなたの嗣業として受け入れて下さい」(出
エジプト記三四・九)。それに応えて、主は言われ
ました。「見よ、私は(再)契約を結ぶ。私はあな
たの民全ての前で驚くべき業を行う」(同一〇節)。
そして今日のローマ書はこのことを明らかにし
ています。今日も改めて心に留めたい神様のお姿
は、このように、私たちは信仰によって義とされ
たのだから、私たちの主イエス・キリストによっ
て神との間に平和を得ており(ローマ五・一)。す
なわち、キリストが執り成し手となられて一方的
に、恵みによって私たちを義となさり平和を授け
て下さる神様です。
八月に入りまして、神様が私たちを義として下
さったということに、私は新鮮な驚きを覚えまし
た。広島の被爆者の代表を務められた方が、平和
公園を訪問されたアメリカのオバマ大統領に対し
て謝罪を求めなかったということを知って、当時、
それが話題になったというのです。あそこで被爆
者の方が謝罪を求めても、謝罪を求める権利を持
っていたと言えるでしょう。でも、もし、謝罪を
求めたら、日本に対する反論も起こって、共に平
和を求める友情は深まらなかったでしょう。でも
被害者が加害者に謝罪を求めず一緒に平和を求め
ましょうと笑顔で言葉を交わすのは、並大抵のこ
とではありません。
パウロはこう語りました。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(ローマ三・二三~二四)。神様は私たちに対して謝罪を求めないどころか、また罪を赦すことに留まらないで、更に積極的に罪人を義となさることに私は驚きました。謝罪を求めないこと以上にもっと大変なことです。大変、と言いますのは、気持ちの上で大変というだけではありません。義とするために、キリスト・イエスの贖いの業、大変な御業が必要だったということです。
パウロは、このキリストの御業、誰のための御業であったかを五章六節以下で、実にキリストはと語り始めます。三つ記します。
一つ目、私たちがまだ弱かった頃、定められた時に、不信心な者のために死んで下さった。
二つ目、私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死んで下さったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。
三つ目、敵であった時でさえ、御子の死によって神と和解させて戴いた。
私たちの様子が、弱くて不信心であった→罪人
であった→敵であった、と深刻度を増しているようです。敵である我々罪人に対して、謝罪を求めず、罪を赦し、更に、神は御子の死によって愛をお示しになり、私たちを神と和解させ、そのようにして私たちを義として下さった。
今日も神様とはどういうお方かを味わいました。今日の出エジプト記の聖句は多少表現を変えながら旧約聖書に幾つも出てきます。例えば「主は憐れみ深く、恵に富み、忍耐強く、慈しみは大きい」(詩編一〇三・八)。ユダヤ教の礼拝でも繰り返し唱えて大事に記憶されてきたそうです。私たちも心に留める、大事にして口ずさんで出てくらいの聖句としたら良いと思う程です。このような神様に対して、私たちは、ただただ、神様を喜び、誇りとする(ローマ五・一一参照)他ありません。