日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2021年1月17日 説教:森田恭一郎牧師

「小人、中人、大人」

イザヤ六〇・二一~二二
マルコ 一・一四~一五

今日は教会学校の教案誌カリキュラムに従って、主の祈りの「御国を来たらせ給え」に思いを深めます。ここに中学生、高校生の人はいますか。この教案誌に一つの質問が載っていましたので、そのまま問いかけてみます。「皆さんは子どもですか、大人ですか」。保育園・幼稚園、小学校に通っている人なら、子どもです。電車やバスに乗る時、料金は小人の料金です。大学生になり二十歳になって成人式を迎える位になれば、もう大人です。それなら中学生、高校生は? 電車に乗る時には大人料金ですが、選挙権はまだない。早く大人になりたいですか。私は行ったことがないので知らなかったのですが、ディズニーランドに行くと、ちゃんと中人料金があるのだそうです。中学時代、高校時代というのは、そういう意味で何だかどっちつかずですが、方向ははっきりしています。もう子どもではない。子どもの時代は満ち、終わった。そして大人に向かっている。子どもの時代は終わって、大人への準備の期間になります。

 

主イエスは高らかに言われました。「時は満ち、神の国は近づいた」(マルコ一・一五)。教案誌に記してあったことを紹介します。「旧約聖書で語られている『時』は、神様の救いを『待つ時』でした。しかしクリスマスに救い主であるイエス様が遣わされたことによって『待つ時』は完成、完了したのです。これが『時は満ちた』という言葉の意味です。そして、イエス様によってもたらされたのは『神の国は近づいた』という『時』です。イエス様の到来により確かに神の国は始まった」。

神の国は近づいた。近づいたのだけれども、来た所までにはなっていない。ここに、待つ時は満ちたが、まだ神の国は完成していない「中間の時」がある訳です。中学生・高校生は、子どもの時は満ちて終わった。でも大人には成りきっていない。そういう中人の中間時代を生きている。

教会の私たちは中間の時を生きているので、神様からご覧になれば、大人の人も含めてみんな中人です。中間の時を生きているから完成を求めて「御国を来たらせ給え」と祈ります。御国=神の国が来れば完成です。神の国では主の祈りの他の祈りは全部成就します。御名は崇められ、御心は成り、日用の糧も与えられ、罪は赦され、悪より救い出され、栄光は神に帰せられる。でも今は中間の時ですから、全てが完成する御国が来るまでの間「御心を地にもなさせ給え」と祈ります。

 

神の国は近づいた。近づくと私たちはどうなるか考えましょう。駅のホームで電車が来るのを待っているとします。来ない間は、ある人は椅子に腰かけ休んでいる。ある人はホームに立ちながらスマホに夢中です。しばらくすると「間もなく電車が参ります。白線より下がってお待ち下さい」。近づいたというのは私たちと無関係ではありません。椅子に座って休んでいた人は立ち上がり、スマホに夢中だった人はとりあえずポケットに入れて、ホームに並びます。そして電車がホームに入って来ると電車の方を見ますね。そして、電車に乗って今日は難波のあのお店に行くんだと思いを馳せたり、鉄道好きの人なら、今度の電車は六〇〇〇系の古い電車だとか八〇〇〇系の新しい電車だとか、色々楽しく思う訳です。これが近づいたという時の準備の過ごし方になります。

 

主イエスは「悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。悔い改めるとは、近づいてくる方向へ姿勢を向けることです。電車が近づいてくると、今まで椅子で休んでいたり、スマホに夢中だったりした人がそれを止めて、電車に目を向け姿勢を整えて乗る準備をするのと同じです。

主イエスは言われました。「子供たちを私の所に来させなさい。神の国はこのような者たちのものである。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることは出来ない」。

そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された(マルコ一〇・三五~)。抱っこしてもらって祝福してもらって、子供も親御さんも嬉しかったでしょう。子供のように主イエスを受け入れ信じると祝福を戴きます。イエス様に愛されている、生まれて来て良かったと思える、それが祝福です。神の国は遠くにあるのではない、神の国は近づいた。だから祝福に与ることが出来ます。それはイエス様が祝福を携えて私の所へやって来られるということです。それが福音です。主イエスに姿勢を向けて、悔い改めて福音を信じる。そのとき近づいてきた神の国の中に招き入れられています。