日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2019年12月22日 説教:森田恭一郎牧師

「天を裂いて降って下さい」

イザヤ六三・一五―一九
ルカ  二・一―七

クリスマスおめでとうございます。クリスマスは、神様が天上から地上へと降りて来て、聖霊によってマリアのお腹の中に宿り、肉となって生まれて来られた出来事です。出来事、それは歴史の中に起こった事実だということです。

ルカ福音書はアウグストゥスがローマの皇帝であった時代、キリニウスがシリア州の総督であった時であると、クリスマスが歴史の地上に起こった出来事であることを強調しています。頭で考え出された理屈ではありません。それだけに、クリスマスは、神が人となられた、肉となった、神様の不思議な神秘の出来事です。

それは、イザヤの言葉を借りれば、天を裂いてまでして降りて来て下さった出来事。また、どこにあるのですか。あなたの熱情と力強い御業は。あなたのたぎる思いと憐れみは、抑えられていて、私に示されませんの表現から用いるなら、クリスマスの出来事は神様の熱情と力強い御業であり神様のたぎる思いと憐れみの現れた出来事です。

クリスマスはそれ程の出来事でありながら、その神様の熱情と力強い御業、神様のたぎる程の思いと憐れみが、マリアから生まれた乳飲み子、飼い葉桶に寝ている乳飲み子に、集中して現れたというか、むしろ、乳飲み子に凝縮して隠されていた、そういう出来事です。ですから天使が教えてくれなかったら羊飼いたちも誰も気が付かない、不思議な出来事。ヨセフもマリアも、天使のお告げが無かったら受けとめようのない不思議な出来事、神様が肉となられた不思議な秘儀、神秘です。

 

このクリスマスの出来事を受けとめることが出来たら、人はこうは言わなくなると思います。神様なんかいるものか、と。開き直る必要はなくなります。また、インマヌエル? 神様が共におられる? そんなこと全然ないじゃないかと開き直る必要もありません。もしそう思いたくなる時があったら、私たちもイザヤのように遠慮なく言っていいし、思いをぶちまけてもいい。どうか、天から見下ろし、輝かしく聖なる宮から御覧下さい。どこにあるのですか。あなたの熱情と力強い御業は。あなたのたぎる思いと憐れみは、抑えられていて、私に示されません。立ち帰って下さい、 どうか、天を裂いて降って下さい。御前に山々が揺れ動くように。

クリスマスの出来事は、このようにして神様の方が降って来て下さったことを明らかにしています。インマヌエル、神様が私たちと共におられる。ですから私たちも神様と共にいていい。

 

ヨセフはこの神様と共にいることを黙って受けとめ、マリアに付き添いました。神の御子がマリアのお腹の中に宿られているからです。クリスマスの時、ヨセフはマリアを支えながらナザレからベツレヘムへ、クリスマスの晩マリアを守り導きながら、馬小屋へと、神と共にいることを黙って受けとめ…ました。

彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。ヨセフもマリアも、馬小屋で産みたいなんて思いませんでした。本当は宿屋が良かったんです。飼い葉桶に寝かせるなんて、本当はベッドに寝かせてあげたかった。布にくるむのではなく、ふかふかのお布団をかけてあげたかった。でも、現実はそれを許しませんでした。そして、馬小屋の飼い葉桶が布にくるまれただけの生れたばかりの神の御子を受け入れる所となりました。

その馬小屋、建てられたばかりの新築の馬小屋ではなかった、その飼い葉桶、造られたばかりの新品の飼い葉桶ではなかったと思います。百歩譲ってそれなり掃除はしてあったかもしれませんが、磨き上げられていた訳ではないでしょう。

 

この飼い葉桶に想いを深めますと、ルターが言ったそうです。飼い葉桶、それはまるで聖書のようだ。罪にまみれた人間の言葉で書かれているが、そこには神の言葉が盛られている。土の器に宝が盛られています。

もしこの言い方を良しとするなら、私たちは言えるでしょうか。この飼い葉桶、それはまるで私の心のようだ。罪にまみれて傷ついた、そして心配りの足らないボロボロの心でしかないけれど、この私の心に、神様の熱情とたぎる愛が注がれていると。

私たちは言えるでしょうか。この飼い葉桶、それはまるで私の肉の体のようだ。時に痛みを抱え、病を患い、問題を抱え、年を重ね、いずれは死んでいく、そういう限りあるボロボロの肉の体でしかないけれど、神様の熱情とたぎる愛に包まれていると。こう言えるでしょうか。

私たちは、自分で天使のように汚れのない清らかな存在になりたい、そう思う必要はありません。また創世記に登場するアダムのように、神様のようになりたい、と思う必要もありません。何故なら既に、神様が共におられ、その神様と共にいれば良いのですから。こちらから神様の方へ行く必要はありません。神様が飼い葉桶の私たちの中におられ、又私たちを包んでおられます。

 

その時、教会はキリストの体になっています。私たちは教会の体に繋がっています。その時、自分のような者がと敢えて自分を卑下する必要はありません。神様の方が私たちと共にいて下さいますから、私たちはその神様と共にいればよいのです。キリストの体、体には血が流れ体中を巡っています。願わくは、そして事実そうなのですけれども、私たちの罪をキリストに贖ってもらいました。そのお蔭で私たちの体は、血の巡りの良い体になっています。そうでありますように。

先日、婦人の皆さんが、教会の皆さんに記名して戴いたクリスマスカードを携え、キリストの恵みを携えて、教会にお出でになれないでいる方々の所をお訪ね下さいました。それとて十分ではないささやかな営みですが、キリストの体なる教会の血の巡りの良さの一つかなと思います。

 

マリアは乳飲み子を布にくるんで、腕に抱きながらきっと子守唄を口ずさんだに違いないと想像します。先ほど歌いました二七一番。

♪牛の声の子守歌、固いわらの布団でも、

救い主の栄光は、小屋の中に溢れます。♪

その時マリアは気が付いたのではないでしょうか。子守唄を唄うマリアの傍らにいてヨセフも気付いたのではないでしょうか。乳飲み子を布にくるんで腕に抱き、子守唄を唄い、そして飼い葉桶に寝かせてあげながら、気付きました。私たちは、神の御子救い主の栄光の溢れる、イエス様の家族になったんだと。私たちも神様の家族になっています。

聖餐式、十字架のキリストの死を告げ知らせる聖餐式ですが、クリスマスの今日、裂かれた主イエスのお体、流された御血潮、この聖餐に与りますなら、聖霊なる神様が人となられた不思議な神秘へと私たちを招き入れてくれています。