日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2018年6月3日 説教:森田恭一郎牧師

「天の故郷を望み見て」

創世記12・1―3
ペテロの手紙一1章1~2節
本日からペテロの手紙一を読み進めて参ります。今日は一節にありますように、私たちが各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちであること、に二つの面から思いを深めたい。
一つ目は、人生の終わりにあたってということです。昨日訃報の連絡を受け取りました。西川千枝子さんが去る五月三〇日に天に召されたとの知らせです。その報を耳にしまして、十分に関わって差し上げないままこの日を迎えてしまい申し訳なく思ったことです。と同時に、ペトロ書の説教準備をしている時でしたので、今回改めて、しみじみとこの一章一節の御言葉を思い浮かべました。
私たちは離散して仮住まいをしている。しかし天国へと選ばれているということです。お見舞いに伺いました時、会話は殆ど出来ませんでした。でも僅かな頷きもあり分かっておられると確信しました。婦人会のクリスマスカードを携えて伺いました折には、讃美歌もしっかりと聞いて下さったと思います。それは、何を意味するかと言えば、自分の置かれている状況も理解しておられるのではないかということです。西川千枝子さんは病を得て、長年住み慣れた家を離れて入院生活を余儀なくされました。これは、家から離散して病院での仮住まいになるということをつくづく思わしめられる経験なのではないかと想像します。それは必ずしも、ただ悪いこと辛いことではなく、天国に向けて心を高く挙げ、そこへと連なる事です。日頃、元気で日常生活に忙しくしていると、心を高く挙げることのないまま過ごしてしまう。文字通り過ごしてしまう。そのまま時が過ぎてしまう。そして、通常、地上の人生を終えれば、戸籍から除かれ国籍も無くなります。財産があれば子供たちへ相続します。私たちは裸で生まれ、地上を去る時には何も携えないままです。結局、自分の人生は離散して仮住まいの人生だった…。
でも、聖書は別様に語ります。仮住まいであるというのは、私たちの本国は天にあります(フィリピ三・二〇)ということであり、また、地上の財産は携えることがないとしても、あなた方のために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者(Ⅰペトロ一・四)とされているということです。イエス・キリストが十字架で私たちの罪を贖い、そして復活して永遠(とこしえ)に生きておられるが故に、そのキリストを根拠に、私たちもまた、罪赦され神のものとされ、甦らされて天の本国にあって永遠に生きる、そういう希望を与えられている。
西川さんの訃報を聞きました時に、西川千枝子さんも、ご主人を先に天に送り、ご自分も病床になられて、このことを味わっておられたに違いないと思わされたのでありました。

もう一つ、各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちの聖句から思います事は、信仰者にとって、地上の人生を生きるということも、私たちが元気な内からやはり、私たちは離散して仮住まいをしている。しかし天国へと選ばれている、これを自覚しているということです。信仰者となって生きるとは、離散して仮住まいを始めるということです。もちろん皆さんの中には、こう思われる方も多いかもしれない。自分は河内長野に生まれ育って今日に至っている、離散などしていないと。あるいは自分は自分の持ち家に住んでいて、仮住まいなんかではないと。でもそれでも、あなた方は離散して仮住まいしているのだ、と今日の聖書は語っています。

アブラハムが信仰者として歩み始めるそのスタートに於いて、彼が主なる神様から受けた御言葉は「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい」(創世記一二・一)というものでした。彼は文字通り生まれ故郷、父の家を離れて旅立ちました。主が示す地に行き、カナンに住みます。妻に先立たれてそこに墓地も購入します。その意味では定住するのですが、それでも生まれ故郷から離れた所での仮住まいでした。
そして二節「私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人を私は祝福し、あなたを呪う者を私は呪う。地上の氏族は全て、あなたによって祝福に入る」。つまり、その土地に住みながら、神様からの祝福を受けて、地上の氏族を全て祝福する祝福の源として生きるものとなるべく招かれます。そして自分の存在、自分の生き方の根拠は神様からの祝福を受けることにある、つまり天にある。そこに自分の源を置き、地上にあっては地上の氏族を全て祝福する存在、生き方になる、そういう人になった。地上に生きながら本国は天にある存在、生き方でありました。

昨年四月、浜松から河内長野に転居する際に、住民票と本籍地をこちらに移しました。その時に浜松市役所であることを言われた。「本籍地も移すんですか。本籍地は余り動かすものではないですよ」って。そのような法律あるんでしょうか。私は「浜松には友だちはいるけれども、親戚も家族もいない。戻ってくる予定もないし浜松に本籍を置いておく必然性はないから移します」と言って住民票と併せて移してきました。
こちらの長老会から牧師館の住所は西代町一〇―一八ですと教えられて、そこを住民票と併せて本籍地にしましたが、ご存じのように本籍地は、どこに置いてもいい。居住地である必要はない。富士山の頂上でもいい。天国に近い? 願いを言えば本籍地は天国一丁目一番地に置ければいいのです…。日本にはその住所が無いものですから出来ません。後から思ったことですが、本籍地を同じ移すなら教会の住所の西代町一〇―一九にすれば良かったなと。もっとも教会の住所も地上でしかありませんが…。言いたいのは、私たちの本国は天にあるという意識です。しっかり自覚したい。

この手紙は、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地の諸教会の人たちに向けて書かれました。今のトルコ、小アジアの地域です。まだまだキリスト教が公認される前でした。歴史上、ローマでは皇帝による迫害もありましたが、小アジアの地域では組織的な迫害が起こる時代ではなかった。むしろ初代教会の日常的な状況を背景にしていると言われています。というのは、異邦人である彼らのキリスト教徒としての新しい生き方が、その生活の仕方や価値観等に於いて、元々の地元の生活のあり方と相違してきた。そこから生じる分離、離散、仮住まいの様子なのです。地元の神々ではなく、イエス・キリストに礼拝をささげる。そのためにキリスト教徒になった人たちは礼拝に集い、洗礼や聖餐式を行う。これだけでも、それまでの習慣とは違いますね。
周囲の人々は聖餐式を誤解して、何やら体を食べ血を飲んでいるらしいと思い込んでしまう。何か変だということになって、だから例えば二章十一節以下、愛する人たち、あなた方に勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。また異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなた方を悪人呼ばわりしてはいても、あなた方の立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになりますとあります。悪人呼ばわりされるというのは、何か悪いことをしたからではない。またこれは表立った迫害などというのではなく、実に日常的な状況です。それを離散して仮住まいしていると表現している。
この書簡はキリスト教の教理を説くよりも、いわば、本籍地を天に置きながら住民票のある地上に於いていかに生きるかという姿勢と方向性を示しつつ信徒たちを励ましている。それがこの書簡です。思えば日本のキリスト教徒もまた、今日も尚、同じなのではないでしょうか。
もしかすると本籍地を天に置かず、地上に置いて信仰を持たない方が楽だったかもしれない? でもそうだろうか。同じ生きるなら、祝福の源として歩みたい。呪いの源になって、いつも誰かを憎んだり、妬んだりしながら生きたいとは思いませんよね。何故か? それはイエス・キリストが私たちを呪うのではなく祝福して下さったからです。その幸いを知ってしまったからです。

振り返ってみると、何故自分が、この日本社会で今日、教会の礼拝に集う人間になっているのか、不思議ですね。教会に来るのは言うまでもなく、自分が神様の御前に誇れるものがあると何かしら誇らしげに思うからではありません。一章二節、あなた方は、父である神が予め立てられた御計画に基づいて、“霊”によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけて戴くために選ばれたからです。私たちの生まれてからの性格の善し悪しや業績の有る無しに関係なく、生まれる前からのご計画に基づいて、導かれているのですね。罪を贖うあの十字架の血が、この自分のためにも流された、注がれたと信じる者となってしまった。そのように選ばれてしまった。有り難いことに…。だから集います。
キリストから呪いではなく祝福を、恵みを、神様との間に平和を戴いているから、だから続いて、恵みと平和が、あなた方に益々豊かに与えられるようにと私たちは祝福し合える。本当に幸いです。