日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2021年9月26日 説教:森田恭一郎牧師

「報復から回復へ」

エゼキエル三九・二五~二九
ヘブライ 一〇・二六~三九

今日の聖書箇所は、前半に故意に罪を犯し続ける人たちに残っている審判や刑罰を語る厳しい言葉(ヘブライ一〇・二六~)と、後半に教会に留まる人たちへの信仰の励ましと希望の言葉(同一〇・三二~)を語っています。ヘブライ書はこれまでにも裁きを語っていました。例えば、だから私たちは聞いたことに一層注意を払わなければなりません。そうでないと押し流されてしまいます。私たちは、これ程大きな救いに対して無頓着でいて、どうして罰を逃れることが出来ましょう(同二・一、三)。何故、キリストの福音を語りながら、裁きや罰を語り続けるのか、私たちは裁きに関わる言葉をどう受け止めればよいのか、本日の課題です。

 

その答えの一つは、審判や刑罰のことを認識すると、救いに入れられる恵みの広さ、長さ、高さ、深さが解かり、豊かな恵みを大事にするようになるということです。これを反対側から考えると、信仰者であっても、自分は罪人だと言いながら、その実、それ程罪深くはないと心の中で思っている。だとすれば、恵みの有り難さが本当には解っていないのかもしれないということです。                            先日、たまたま、アルコール依存症の人たちの自助グループの本を読む機会がありました。改めて知ったことは、アルコール依存症は理性をしっかり持てばアルコールに手を出さなくなるというものではない、ということです。これでは駄目だ、もうやめようと心から思い、家族や周囲の者たちにも迷惑をかけて心から謝っても、舌の根が乾かない内からまた手を出してしまう。あるいは、たとえ二十年以上断酒できても、その後一杯のビールを飲むと「もう一杯位大丈夫」と泥沼にはまる。一度ひるむと滅びに向かって抗えないまま押し流され、結局は体も心も壊れて亡くなっていく。そういう怖い病気だということです。お酒を楽しくたしなむ健康な人には理解しにくい。       この人たちは、立ち直るのに何が必要か知っています。自力では出来ないこと、自分を越えた方からの支えが必要なこと、本当に治りたいと決意すること、本気で求めれば応えられること、その恵みを伝え励まし合う共同体が必要であること。

 

読んで思ったことは、自助グループの方たちが、もし今日の一〇章二六節以下や二章の先程の箇所を読まれたら、うなずかれるのではないか。ご自分と重ね合わせて、救いに対して無頓着で、一層注意を払わなければ、自分だけではいともたやすく押し流されてしまうこと、その結果として自分たちにどれ程重い刑罰がもたらされてしまうか、キリスト教徒でなくても自分なりに同意されるのではないか。自助グループの方たちはその分、自分を越えた方からの支えによる救いの確かさを感謝しておられるように思います。                                ヘブライ書に戻りますが、福音を語りながら裁きを語る理由の二つ目。当時の教会の置かれていた状況は、迫害や殉教が起こる厳しい状況でした。それで、教会の集会を怠り(ヘブライ一〇・二五)、教会から遠のいて、信仰を捨ててしまう人たちが生じてきた。

私たちは、今はそのような状況の下にはありませんけれども私たちだって、神はいなくても自分で生きていける、とどこかで思っているかもしれない。本当の現実は、例えば、洪水が押し寄せてきて溺れかけている状況です。その時に、救命ロープや救命の浮き輪が用意されたのに、わざわざ手放す。あるいはヘリコプターから消防隊員が救いに来てくれてしっかり捕まえてくれている、であるのに「いやいいです」と隊員に身を任せようとしない、そのようなことはしません。危険で深刻な状況が解っているからです。        であるのに私たちは、教会の集会を怠り離れてもまあ大丈夫と思う誘惑に絶えずさらされている。罪深さと救いの確かさに無頓着でいられるのは恐らく、私たちの弱さ、罪深さの深刻な状況を解っていないからです。裁きを語る理由はここにあります。無頓着でいると押し流されてしまう深刻さを認識する。そのために、集会から離れることを習慣にしてしまうのではなく、礼拝の集会に集うことを習慣にすることが大事である訳です。                           今日は説教題を「報復から回復へ」としました。近年、「リヴェンジ= revenge」という用語を耳にするようになったと感じます。報復、復讐といった意味の言葉です。裁きは一つの言い方をすれば、罪に対する報復です。ヘブライ書が復讐は私のすること、私が報復する(ヘブライ一〇・三〇)と旧約聖書の聖句を引用する通りです。もっとも、リヴェンジも用い方によっては、悪くはありません。「オリンピックでは前回メダルを取れなかったので、今回はリヴェンジです」。自分に対するチャレンジの意味で用いられるようです。

もう一つ、聞くようになった言葉があります。「レジリエンス=resilience」。回復という意味です。病院でレジリエンス外来という診療科目もあるそうですが、感染症被害からの個人や社会の回復を意味するものとして聞くようになりました。                         旧約聖書でも、回復への神様の御心は明らかです。まず、貪欲な彼の罪を私は怒り、彼を打ち、怒って姿を隠した。彼は背き続け、心のままに歩んだ。私は彼の道を見た(イザヤ五七・一七~)。罪人の道をご覧になったのですからお怒りになるのは当然です。でも、神様の御心は、報復より癒やしと回復です。私は彼を癒やし、休ませ、慰めをもって彼を回復させよう。民の内の嘆く人々のために。私は唇の実りを創造し、与えよう。平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。私は彼を癒やす、と主は言われる。          聖書は報復を語りますが、それは正義を正義として貫くためです。その報復は、地上の人生の後の事としては審判として、キリストが負い給もうことが明らかになります。キリストの側の御業です。そして地上の私たちの人生にあっては、罪に押し流された結果の自業自得が報復になりましょうか。パウロも語ります。不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます(ローマ一・一八)と述べた上で、怒りの現し方が、そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするに任せられ(同一・二四)、彼らを恥ずべき情欲に任せられ同一・二六)、彼らを無価値な思いに渡され(同一・二八)た。正しいことでも強制されては心からのものにはなりません。自分の意思で行おうと思うまで、神はお待ちなる。その間、お姿を隠されて、我々の思うままに任せられる。

聖書は、キリストによる救いの確かさと希望を約束しています。今日のヘブライ書も、また、自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っているので(ヘブライ一〇・三四)と語り、私たちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です(ヘブライ一〇・三九)、それ故、だから、自分の確信を捨ててはいけません(ヘブライ一〇・三五)と人間の側のひるむ弱さの深刻さを認識させ、信仰へと私たちを励ましています。神様がキリストを遣わして、私たちに求めておられるのは、回復です。個人に対してのみならず社会に対しても同じです。それ故、主なる神はこう言われる。今や私はヤコブの繁栄を回復し、イスラエルの全家をわが聖なる名のゆえに熱い思いをもって憐れむ(エゼキエル三九・二五)。世界の政治にあっても、報復でなく回復を求めて、忍耐深く政治が行われることを願います。

救いの確かさはキリストによって確かですが、希望の約束が実現するまでは時間がかかります。私たちがいる地点は回復への途上です。回復への道のりを私たちは希望の忍耐を以て歩んでいます。福音と共に審判を語るのは、福音の豊かさを味わい、その恵みの広さ、長さ、高さ、深さの中に留まって、神の栄光をほめたたえるためです。