日本キリスト教団河内長野教会

メニュー

kawachinagano-church, since 1905.

説教集

SERMONS

2020年5月31日 説教:森田恭一郎牧師

「執り成し受けて望み見る神の幻」

ヨエル  三・一
使徒言行録二・一~四

今日は聖霊が降った聖霊降臨日、教会の営みが誕生した教会の誕生日です。おめでとうございます。聖霊が降ると出会いが起こりました。それが今日の主題です。まず、キリストとの出会い、いやキリストの私たちとの出会いです。そしてキリストが出会って下さった出会いを伝える伝道が始まりました。このキリストを、弟子たちが語り始め、人々との出会いの中にキリストを証しし始めました。キリストが私たちと出会い、人々と出会う、この出会いの出来事、これは聖霊降臨のこの日以来、代々、教会の営みに起こる出来事です。

 

さて使徒言行録、一同が一つになって集まって(一・一四、二・一)いました。一緒に祈るためにです。この日もそのように集まっているとここに聖霊が降りました。二人または三人、四人、五人と集まることの幸いを私たちも味わっています。教会に集い、祈り、一緒に御言葉を聴き賛美をささげます。この日、集っていると突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた(二・二)のでした。天からの音です。垂直の出来事です。天には天に上げられたキリストが神の右に座しておられます。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上に留まったのでした。

実は、一人一人の上に「留まる」はキリストが天で神の右の座に「着く」(エフェソ一・二〇)と同じ言葉です。地上の時間では昇天日と聖霊降臨日の間には十日間の時間差がありますが、主イエスが天上で神の右の座に着かれるのと地上で聖霊が一人一人に留まるのは、表裏一体です。ルカ福音書と使徒言行録は、復活、昇天、聖霊降臨を時間の経過に分けて表現していますが、本質は一体の出来事です。

五〇日前の復活も、ヨハネ福音書は主イエスの復活の日の出来事をこう記しています。その日の夕方、弟子たちにこう言われました。「あなた方に平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなた方を遣わす」。そして息を吹き入れて、言われました。「聖霊を受けなさい。誰の罪でもあなた方が赦せばその罪は赦される」(ヨハネ二〇・二一~二三)。復活の日に聖霊降臨が起こっています。

思えば、復活はどの記事も、主イエスの方から出会いに来て下さったことを記します。

そして出会いの質は「イエスが来て真ん中に立ち「あなたがたに平和があるように」と言われた。 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだというもの。

 

主イエスが天に挙げられた昇天も、主イエスが遠く天へ行ってしまわれたということではなく、むしろ、天の神の右の座から私たちを執り成し、いつでもどこでも、世界中の全ての人々に出会うためのものです。

聖霊降臨も昇天と一体の出来事として、復活の主が私たちと出会うために、天の神の右の座から私たちを執り成す出来事です。この天からの執り成しが、聖霊降臨となって、地上の私たちに届いて教会の営みが始まります。

その営みにおいて起こるキリストの執り成しの内容は、キリストが私たちと出会うために、私たちを教会に招き、罪の赦しの宣言をして下さるということです。聖霊に拠らなければ、誰も「イエスは主である」とは言えないのです(Ⅰコリント一二・三)。私たちを、キリストを信じ、そしてキリストを証しする者にならせて下さいます。礼拝も、説教も聖餐も、今日の表現で言えば、キリストが私たちに出会って下さるためのものです。そして私たちも信仰の目を以て主を見て喜んだ、となります。

 

この喜びを、使徒言行録は、ペトロが代表して他の弟子たち十一人と共に立って話し始めた姿を以て言い表します(一四~三六節)。ヨエル書を引用し、若者は幻を見、老人は夢を見る。若者と老人だけという意味ではありません。若者から老人に至るまで皆という意味です。その幻と夢の内容は、このペトロの説教においては、ナザレのイエスこそ、神から遣わされた方です。神は(十字架に付けられ殺された)このイエスを死の苦しみから解放して復活させられました。あなた方が十字架に付けて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。自分が殺した方がメシア=救い主として到来なさる、これは、ペトロや弟子たちが復活の主イエスとの出会いに於いて経験したことです。十字架以前に、主イエスを見捨てて逃げ去り、主イエスを知らないと言い放った弟子たちやペトロが復活日に経験した、罪の赦しの喜びの経験です。

 

先週、人生一歩一歩と話をしました。一方において罪人としての一歩一歩です。けれども主イエスが出会って下さり罪赦される。今度は罪赦され、キリストに愛された者としての一歩一歩です。そこへとキリストが執り成し、聖霊が私たちの歩み一歩一歩を導いておられる。既に夢幻の中を生かされているとも言い得る状況です。そしてここにいた人々は旧約来、これを幻として夢見て来た。この夢幻を人々はこの日、目の当たりにしています。

 

その後(三七節以下)、人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。 すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」 ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。

三千人もの人たちが出会った訳です。ペトロの喜びの証言を通してキリストと出会い、弟子たちも三千人の人たちと出会いました。この出会いは聖霊降臨のお蔭です。聖霊降臨と共に、出会いへと私たちは招かれている。使徒行伝を聖霊行伝と言い表すことがあります。この聖霊降臨により、その都度起こる出会いの出来事、そこから起こる伝道と牧会の出来事、それを聖霊行伝は記録しています。

次週もまた、その記録の中から、聖霊を通して起こる人との出会いの出来事、一歩一歩歩む中で明らかになった夢幻をお話しします。

 

祈り 私たちを、キリストを信じる者へとお導き下さる聖霊なる神様、私たちをあなたの御前に集め、キリストと出会わせ下さいます事を感謝します。この後の聖餐式で起こります事はまさに、ここにいまし給うキリストの出会いを私たちに確かにして下さるあなたの御業です。私たちが集まり祈る所に、聖霊は降臨して下さいます。今年度ようやく営みが始まります河内長野教会の群れにも、聖霊を与えて下さいますように、心より祈ります。