日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2019年10月13日 説教:森田恭一郎牧師

「共にあり、神が遣わす証し人」

出エジプト記四・一〇―一七
Ⅰヨハネ   五・六―一二

私たちは日本社会、異教社会にて信仰者として歩みます。日本人としてまたキリスト教徒として生きるその労苦と喜びがあることを思わずにはいられません。前回、隣人愛と兄弟愛の区別とその関係について学びました。兄弟愛というのはイエス・キリストを信じている者同士の愛の関わりです。教会共同体が確立しつつ、そこに基盤を持ちながら今度は、神様を信じていない隣人に対しても、隣人愛を展開させます。

それで今日は、自分の信仰を日本社会に同化させずにしっかり保った上で、隣人愛を配慮していくことだと捉えてみたい。それを隣人愛と言えば大袈裟に聞こえますが、相手を想い、相手が健やかに生きて行けるように配慮していく。この配慮が一層進めば、相手の人は配慮の在り方に、有難さを覚え、自分もそうやって生きようかなと思う。私たちの姿が一つのモデルになって、それが世の中に広がっていく。それが意味することは、地域のキリスト教化です。

一一月には、召天者記念礼拝、午後には墓前礼拝をささげます。一人ひとりに葬儀を執り行い、一人ひとりの納骨を致します。この習慣、一般人の一人ひとりの葬儀は、以前には日本になかった。キリシタンの宣教師がこれを日本に持ち込んだと、ある本で読んだ記憶があります。室町時代、戦国時代のことです。それが今や、日本の当たり前のこととなった。これも一種のキリスト教化です。

葬儀の儀式の形だけでなく、私たちの本国は天にあります。この使信は、極楽とは異なります。人間の善い業の故ではなく、イエス・キリストの十字架の贖いの故に、私たちの本国が保障されている。そのことを日本人誰もが思えるようになれば、これは素晴らしいキリスト教化です。

葬儀、こういったキリスト教文化価値、他にも例えば民主主義、福祉施設やホスピス、これもキリスト教から生まれたものです。そういった一人ひとりの人格を大切にし、その人格を守るための人権を守る文化価値。日本人の多くがこのことを自覚しないまま今日、当たり前に受け取っています。しかし他方、それが当たり前にされないで、いじめや虐待が起こる。もっとキリスト教文化価値が一人ひとりの心に根付くようにと願います。

 

また、異教社会にあって、私たちキリスト教徒自身が、主イエスを信じていた所で何になるのだろうと思ったりする。そう思うことがなければ幸いですが、一度信じたら大丈夫というのではない。むしろ何か疑い始めたら、キリがないし、意外と信仰がぐらついて崩れて行く。教会からも離れて行く。キリスト教徒でありながら絶えず弱さを抱え、事実そういうことが起こり得る。

それで私たちにも信仰を支えるものが必要です。キリスト教の語るこれは真理だと繰り返し確認し、だから信じて行こう。毎週礼拝に集い、キリストの臨在に触れ、その真理を信じて行くことを通して、支えてもらい応援してもらっている。

そしてまた一人で礼拝をささげているのではない。一同集って信仰を以て生きるお互いの姿がある。春には中高生の修養会、秋には青年のキャンプがあります。個々の教会では若者が少なく、独自に集会を開けない。だからそういう教会が複数集まり合同の集会を開く。そうやって集まり、キリスト教を信じようとしているのは自分一人だけではない、諸教会の仲間たちの交わりの中で強められる。当教会からの出席者も経験しています。

 

ヨハネもある意味で少数者だった。肉となったこのイエス・キリストを信じる者の教会の交わりを必要とした。今日、私たちの教会には聖書があり信仰告白がある。この告白の枠に従って聖書を読んでいれば、その読み方も誤りがない。イエス・キリストがどういう方であるか、聖書と信仰告白が真実に証しするものとなるということを、教会は教会史の中で経験的に学んできた。

ヨハネの教会はその以前の段階で、大変な葛藤があった。信じるべきイエス・キリストがどのような方であるか、あの頃は聖書も信仰告白もなかったので、信仰の定型が出来上がっていませんでした。自分の信じていることが本当か、周りから問われたらどう答えるのか、自分の個人的な思い込みの意見を宣べているだけなのか、客観的な真理を語っているのか、どうそれを見分けるのか?

 

それで今日の箇所、この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。そして、〝霊〟はこのことを証しする方です。〝霊〟は真理だからです。そして〝霊〟はこのことを証しする方です。〝霊〟は真理だからです。証しするのは三者で、〝霊〟と水と血です。この三者は一致しています(六節以下)。〝霊〟=聖霊が証しするから本当だ。真理だと言える根拠がこの証です。

水と血。通説の理解でお話しますが、水は主イエスが洗礼を受けられたことを指している。ヨハネ福音書の主イエスの洗礼の記事、「私はこの方(イエス・キリスト)を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、私は、水で洗礼を授けに来た」。この水ですね。洗礼を水で授けた。水はただの水なのですが、ここに「私はこの方を知らなかった。しかし水で洗礼を授けるために私をお遣わしになった方が『〝霊〟が降って、ある人に留まるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』と私に言われた。私はそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」(一・三一以下)。聖霊が降るのを見て、洗礼者ヨハネは、このイエスが神の御子であられると証しした。これが水による証し。

 

それから血によって来られた。言うまでもなくこれは、イエス・キリストが十字架に付けられた時に流された血潮のことです。イエスを、神の御子と信じない人から見れば、ただの男が死んだだけのことで終わる話。でもそこに聖霊が働いて十字架を見上げると、この十字架は私たちの罪を贖う出来事なのだと分かる。それはただの人に出来る事ではない。神の御子だから為し得る神の御業なのだ。聖霊を受けた時に分かる話です。弟子たちは聖霊降臨の時に理解しました。

洗礼者ヨハネによって示された水による証し、弟子たちに明らかになった血による証し、どちらにも聖霊が働き、イエスは御子なのだと示された。

 

本日は、伝道献身者奨励日、神学校日。召命を受けて伝道者になる。准允を受け説教を語り、按手礼を受け聖礼典を執行する者となる。伝道者自身を支えるのも、聖霊の証しです。

今日は旧約聖書出エジプト記四章からモーセの記事を読みました。お前は行って語れと神様から言われる。召命を受けるのですが、モーセは拒みます。「ああ、主よ。私は元々弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけて下さった今でもやはりそうです。全く私は口が重く、舌の重い者なのです」。自分自身の能力や自信など、自分自身を根拠にしたら伝道者になどなれません。でも神様が約束下さいます。「さあ、行くがよい。この私があなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう」。神様が導き、語る口と言葉を与えて下さるから語れる。毎週の礼拝説教もそうです。聖霊の導きのお蔭で牧師でいられる。

 

伝道者への召命とは言いますが、しかし、牧師に召される事だけが召命ではありません。考えてみて下さい。異教社会にあって、皆さんは教会へと招かれ、今や、キリスト教徒として生きています。当たり前…の事ではないですね。この日本社会にあって。これも召命です。

皆さんも神様からの証しを受けて、その証しが皆さんの中に入って来ている。私たちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更に優っています。神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです。神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり…(九節以下)。神からの証しが、もう自分自身の内にある証しになっている。それが自分自身の御子を信じる信仰になっている。私たちはみんな、教会へと召命を受けた。

キリスト教徒になるベースの召命があって、さらに牧師、伝道者になる召命も与えられる。この教会の集いの中から伝道献身者、牧師となる志を与えられる人が起こされますようにと祈ります。

 

旧約聖書に登場するアラムの軍司令官ナアマン(列王記下五章)。異教徒の彼が預言者エリシャに出会い病を癒され、イスラエルの神を信じる者となりますが、職責上、異教徒の神々の神殿で仕事をしなければならない。その了解を求めるとエリシャは彼に「安心して行きなさい」と励まします。彼が異教の神々に同化して仕えるのではなく、異教社会の中で配慮の内に生きるからです。

皆さん、これを賢く区別して下さい。同化したり土着化して、社会に合わせてキリスト教徒の信仰が崩れて行ったら駄目です。教会からも離れて行きます。しかし、教会から離れるずに証しをしっかり持ちながら、異教徒の人たちに配慮し、この配慮を以て異教社会を生きて行く。牧師でなくても皆さんは立派な証し人へと召されています。