エゼキエル三四・一六
ヤコブ 五・一九~二〇
私の兄弟たちと語りかけるヤコブ書の最後の所です。私の兄弟たち、あなた方の中に真理から迷い出た者がいて、誰かがその人を真理へ連れ戻すならば……(ヤコブ五・一九)。
百匹の羊の譬え話を思い起こします。一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか(マタイ一八・一二)。この羊、初めは、牧草地の野原で楽しく遊んでいたに違いない。でも気付いてみたら自分だけになって迷っていた。この譬え話を聞いて、自分から迷い出たつもりはないから、自分は九十九匹の方だと思う人は恐らくいないでしょう。
ペトロの言葉も思い起こします。あなた方は羊のようにさ迷っていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方の所へ戻って来たのです(Ⅰペトロ二・二五)。こちらの聖句では、あなた方は以前、羊のようにさ迷っていた、と皆のことを語っているようです。それで今日は、私たちが連れ戻すことについて思いを向けたいと思います。
ヤコブ書は、あなた方の中に真理から迷い出た者がいて、と教会の私たちも迷い出る可能性がこれからもあることを念頭に語っています。そして、私の兄弟たち、誰かがその人を真理へ連れ戻すならば、罪人を迷いの道から連れ戻す人は……と、誰か教会の私たちに、迷い出た羊を捜し出し見出し連れ戻す羊飼いの務め、魂の牧者であるイエス・キリストの務めを担ってくれることを期待しているようです。
真理から迷い出る羊は一方の私たちの姿です。礼拝に集わなくなった姿(感染症予防のためではなく)、集っても心が真理に向かなくなった心の姿。そして他方、真理へと連れ戻すのも、もう一方の私たちの姿です。連れ戻す所、その真理とは言うまでもありません、キリストの所です。ここに連れ戻す、キリストに思いを向けるように促す。これが牧師、長老はもちろんのこと、私たち教会の皆の姿です。この教会の牧会の姿、私たち皆が担う相互牧会の姿を語ってヤコブ書は終わります。
今日は聖書個所の状況を読み替えて、病を抱えて自宅なり施設で療養、あるいは病院で入院している状況を思い起こしてみます。「真理から迷い出た」という所を「病を患い不安になっている」状況として捉え、そして「罪人を迷いの道から連れ戻す」という所を「その病人を不安の中から安心してもらうように促す」、そして「魂を死から」を「魂を絶望から」と読んでみたい。するとこうなります。「私の兄弟たち、あなた方の中に病を患い不安になっている者がいて、誰かがその人をキリストへと連れ戻すならば、その病人を不安の中から安心してもらえるように促す人は、その病人の魂を絶望から救い出す」となります。
昨今、人生会議ということが言われるようになってきました。自分が病になり主体的に物事を考えられなくなったり、意識不明状態になって意思表示出来なくなる前に、どういう医療を受けたいか受けたくないか、どの程度の延命治療を望むか望まないか、もし最期を迎える時になったら病院で迎えたいか自宅で迎えたいか等々を、前もって話しておく話し合いのことです。どう生きたいかリヴィングウィルのことであり、どう人生を全うするかを記すエンディングノートのことでもあります。医療チームとのやり取りに関わる事だけでなく、もっと広く捉えて、介護が必要になったらどういう介護サービスやどの施設を利用するのかというようなことから、亡くなってからの葬儀やお墓のことはどうするのか、遺す財産はどう用いたいのかということまで、元気でいる今の内から考えることが必要です。それを自分一人の頭の中で考えるだけでなく家族と共有しておくべきこともあり、そのための話し合いです。更には、家族や知人と感謝の言葉や、場合によっては和解の言葉を交わしておくことも大事なことです。
こういう事柄を考え、話し合っておく折に、どのような話になるにしても根底に持っておくべきことがあると思います。それは、信仰故の平安の中にあるということです。救いの希望を天国に繋ぐ平安の中で一日一日、日々を過ごすということです。特に今の状況は、感染症に罹ったらもちろんのこと、感染症でなくても入院したら、院内にヴィールスを持ち込まれたら大変ということで、家族も面会ままならず、じっくりと話し合うことが出来ません。牧師もお見舞いに伺えず、お気持ちを聴くことも出来なくなります。元気でいる今の内から信仰の平安を確認し、病になって自分がうろたえないようにと言いましょうか、いや実際にはうろたえたりするのですが、立ち戻り守られている信仰という根底・基盤を確認しておきたい。キリストの上に立ち返られるようにしておきたいのです。その安心感=平安があれば、前もって考えるべき事柄に向き合えますし、病になってからもキリストが基盤にあって平安でいられます。
私たちはしかし、そうは言っても、つい悪い事に思いが行ってしまって、自分では不安を拭い取れない時があります。身体が痛くて祈る余裕もない時もあるかもしれません。
そこでヤコブ書の終わりの聖句を味わいましょう。多くの罪を覆うことになる。覆う。同じ意味で「包む」という言葉もありました。主は打ち砕かれた心の人々を癒し、その傷を包んで下さる(詩編一四七・三)。傷を治す=治療するのではなく包むだけです。それで癒されていきます。また、私は失われた者を尋ね求め、追われた者を連れ戻し、傷ついた者を包み、弱った者を強くする(エゼキエル三四・一六)。小包のように物を包むのではなく、傷ついた者(=人)を包みます。
「覆う」も同じです。罪を覆う。罪を除去するのではありません。覆うだけです。しかも自分で覆うのではなく、覆ってもらいます。牧師が、長老が、教会の誰かが、執り成しの祈りをささげます。最終的に覆って下さるのは、執り成しの祈りを聴き取って下さる聖霊なる神様です。愛は全ての罪を覆うという聖句もあります(箴言一〇・一二、Ⅰペトロ四・八)。キリストは愛なる神です。その愛を以て全ての罪を覆って下さいました。それを信じて私たちは執り成しの祈りをささげ、聖霊なる神様が聴き取って下さいます。病を患い、不安の中にあるまま、キリストを見出せなくなっているまま、そのまま、愛を以て覆って下さいます。
迷い出た羊を捜し見つけ出すのは羊飼いです。百匹の羊の譬え話の終わりはこう締めくくります。もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなた方の天の父の御心ではない。見つけ出してもらった羊も嬉しいでしょうが、見つけ出した天の父の方がもっと嬉しく、喜んでいます。
マタイ福音書は、この譬え話に続いて主イエスのお言葉を記します。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」。ここでは忠告することを記していますが、忠告の代わりに、その人のために執り成しの祈りをささげるとしたらどうでしょうか。その兄弟が聞き入れなくても、キリストは愛を以て兄弟の罪を覆って下さいます。
ヤコブ書はその終わりに多くの罪を覆うことになると知るべきですと記します。知るべきです。知りなさい、と命令形です。キリストが罪を覆って下さる、それを知りなさい。それを安心して確信しなさい。だからこそ病気の人は長老を招くべきであるし、長老は祈らなければならない(ヤコブ五・一四)のでした。ヤコブ書は、知りなさいと強く命令形で福音の確信へと招き、書を締めくくり筆を置いています。私たちは、この確信と安らぎの下で、罪を犯す兄弟を覚え、また病の中でキリストを見出せない不安の中にある病の人を覚え執り成しの祈りをささげます。そしてそれはお互い同士のことでもあります。私たちは、相互に執り成し合う教会の共同体なのですから。それはまた地域の人たちに大きな証しになるに違いありません。