日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2017年10月1日 説教:森田恭一郎牧師

「信仰のみ」

イザヤ書28章16節
ローマの信徒への手紙3章21~26節
今年は宗教改革500周年ということで、説教では先週より、宗教改革の原則を主題にしております。先週は「聖書のみ」、今日は「信仰のみ」、次週は「万人祭司」を主題にしていきます。11月まで続けて行きます。
信仰について語るべき主題は幾つかあるのですが今日はその内の一つだけを取り上げます。信仰は、神が人間を義と認めて下さった神の行為を私たちが受け入れるために必要だということです。神が人間を受け入れて下さったことを、人間が受け入れるのは信仰を通してです。
先週は「聖書は望遠鏡のようなものだ」と申しました。望遠鏡を覗くと遠くの星々が見え、地球を包み込む宇宙に思いを馳せます。
それと同じように、聖書を開き、聖書を覗き込むと、聖書を通してのみ見えてくる広がる世界がそこにある。神様の愛は、キリストを証し紹介する聖書という望遠鏡でのみ見えてきます。だから「聖書のみ」です。教会の礼拝で聖書を覗いて、その言葉を味わえば味わう程、遠くにあって自分とは関係ないと思えていた神様とその愛がグングン近くに迫って来て私たちを包み込んでいることに気付き、喜びを覚え、それを信じないではいられなくなります。そう申しました。そして今日は、向こう側に広がる神の愛の世界を受け入れるのには信仰が必要だと申し上げたい。聖書を覗き込んで向こう側に広がる神の愛の世界を、ただ向こう側にあると気付くだけでなく、神様とその愛がこちら側へグングンと近くに迫って来て私たちを包み込んくる認識の体験をするには信仰が必要です。

別の言い方をしますと、自分が、品行方正に善意に満ちた生き方をし、善い行いをどれ程行ったとしても、神の愛は見えてこない。善い業という行為や生き方では、自分を誇ることは出来ても、神の愛はこちら側には来ない。来ていても気づかないし、受けとめられない。行いによるのではない、信仰による。行為に対して「信仰のみ」です。ローマ書3章27節に「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました」とある通りです。28節「何故なら、私たちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」とある通りです。
そしてよく、信仰義認とか、信仰によって救われるとか言います。
ただ、一つ注意が必要です。信仰によってという事が「信じる」という人間の行為になってしまうと、それは信仰義認と言いながら、その実、信じるという行為の義認になってしまいます。
ある神学者が、信仰は管・ホースのようなものだと言いました。庭に水を撒くときにホースを使う、蛇口を開けると水が出て来て、ホースの中を通って、少し離れた庭に届く。向こう蛇口からこちら側の庭に、水を撒くことが出来る。
それと同じ様に向こう側からこちら側へと神の愛をもたらしてくれるのは信仰というホースです。そして、ホースの中は空洞でなければならない。土や石が詰まっていたら水は通らない。それと同じ様に、神の前に自分を自慢する誇りプライドがあると、信仰というホースは詰まってしまう。立派に善い行いをしていますというのも、立派に信じていますというのも、プライドになって信仰のホースを詰まらせます。信仰は空洞で良い。その意味で、信仰によって救われるという言い方は、信仰を通して救われると理解すると良いでしょう。信仰を通して神の愛を受け入れることが出来る訳です。
さて、ここまで「信仰を通して神の愛を受け入れる」と申し上げ来ましたが、今日の聖書箇所を見ると「神の愛」とはありません。「神の義」と書かれてあります。22節から「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」。神の義が示されたのは、それは20節です。「何故なら律法を実行することによっては、誰一人、神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」。
律法が示すことを行うという自分の力では義となれないという仕方で、あるいは、このままでは神の義によって裁かれてしまうという仕方で神の義が示される。このままでは神の前に立てないという神の義が示される。気持ちは慌ててしまいかねません。
これを神の義を裏側から示すこととすれば、もう一つは表て側から神の義を示すのが24節です。「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して」です。そうやって示された神の義は25節後半によると「今まで人が犯した罪を見逃して」神の義をお示しになったものです。「罪を見逃す」というのはただ見逃したのではない。キリストがその罪を担って裁きを負って下さった。その時、罪を裁く神の義は私たちには罪の赦しとなり神の愛となる。この福音のお陰で私たちは神の前に立つことが出来ます。ルターはこのことを神から私たちへの義の転嫁と言います。神様が義を私たちにプレゼントして下さったという意味です。だから私たちは神の前で義と認められるのです。このキリストの贖いの出来事が私たちにとって意味することを理解し受け入れるのには信仰が必要です。そして信じる者は慌てることはない(イザヤ書28・16)。
これから聖餐に与ります。今日は世界聖餐日ですので聖餐を巡って思いを深めたいと思います。
私たちはパンを食べ杯から飲みます。この聖餐のパンと杯が表している意味を受け入れるのには信仰が必要です。パン、これはキリストの体。杯のワイン、これはキリストの御血潮。あの十字架で割かれたキリストの御体、あの十字架で流されたキリストの血潮。
何故、聖餐式のこのただのパンがキリストの体なのでしょうか。それは信仰を通してのみ受け入れることが出来ます。なぜこのただのワインがキリストの血潮なのでしょうか。それは信仰を通してのみ受け入れることが出来ます。あの十字架の出来事をキリスト=救い主の、贖いの業と信じる信仰に呼応して、聖餐式のパンと杯を、キリストの御体、御血潮お信じます。
逆に申しますと、信仰無しにパンを食し杯から飲んでも意味がないし、キリストから見れば、御自身の体と血潮を差し出しているのにその真意を受けとめてもらえないというのは悲しいことです。
丁度、亡くなられた故人の形見は遺族にとって大切なものですね。最早、ただの物ではない。それを他の人が手にする時には亡くなられた故人に思いを馳せながら手にしなければなりません。それをただの物として、売ったら幾らになるかねなどと扱ったらご遺族の方たちに対しても失礼になります。
そして聖餐のパンと杯は形見以上のものです。キリストが今ここに臨在したもうこととして信仰を通してパンと杯を受け入れます。

もっとも、キリストが今ここにおられることについての受け入れ方は立場によって異なります。
中世の一般民衆は「これは私の体である」と司祭が言ったとき、本当にパンそのものががキリストの体になったのだと素朴に信じたかもしれません。カトリック教会はパンは外見はパンのままだけれどもパンの見えない実体だけがキリストの体になったと信じました。ルターは外見も実体も区別はない全部パンであるが、パンの中にキリストが入ってこられるのだと信じました。パンという有限の物質の中に無限のキリストが入って来る訳です。これらの信じ方はパンを落としたり、ワインをこぼすと、キリスト御自身を落としたりこぼしたりすることになりますから、ほうきで履いたり雑巾で拭いたりしたらとんでもないことになる。
一方、合理的に考える人は、ただのパンだけども、聖餐式の時にキリストを思い起こせばいいのだと考えました。この考え方だと、思い起こせばいいのであってパンでなくても良いことになる。先程の形見と近いですが、キリストは過去の存在ではありません。
私たちの教会は、パンはパンのままであって、有限物の中に無限のキリストが入って来られることもないけれども、聖餐式において聖霊の導きの下、キリストが「これは私の体」と謂われたこのパンと共にキリストが臨在すると信じます。
これらの様々な聖餐理解により、宗派教派が一致することは出来ないのですが、聖餐をめぐる立場は異なっても、キリストの体と血潮に与る点では同じです。今日は世界聖餐日です。私たちの罪を贖われたキリストの臨在の恵みを、信仰を通して世界中の教会が受け入れるのです。