日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2020年1月12日 説教:森田恭一郎牧師

「伏し拝む、御顔を前に」

申命記 五・七
ガラテヤ五・一

先週より、十戒を主題に御言葉を味わっています。先週は前文、私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神であるを読み、神様は救いの神としてご自身を現されたことを申し上げました。これで前文について学びは終わり、ではなく十戒はどの戒めも、前文との関係の下に読まなければなりません。

戒めというと「何々しなさい、何々してはならない」という一方的命令のように思いがちですが「何々するはずですね、何々するはずがないですね」という神様の民に対する信頼の語りかけです。

 

本日は第一の戒め。あなたには、私をおいて他に神があってはならない。これを信頼の語りかけとして読みますとこうなります。私があなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神であるのだから、あなたが私以外のものを神とするなんて、あるはずがない。このように信頼されてイスラエルの民も「もちろんそうです、あなたをおいて他のものを神とするなんてしません」と応答することが期待されている訳です。

ところが、イスラエルの歴史はそうならなかった。他のものを神々としてしまった。そして私たちもその弱さを抱えています。そうなったらどうすればいいか。他に神があってはならないという戒めを守ることに想いを向ける…ことも大切ですが、更に大切なことは、自分を救い出して下さったのはこの神様だという救いの原点に立ち返ることです。どの戒めであれ、十戒を思い起こし想いを深める時には、絶えず、前文を思い起こし想いを深める、そこから各々の戒めを思い返す。このことが不可欠です。ただ決まりを守ればいい、というのではない。もし決まりを守るだけの十戒ならば、十戒は不自由な規則、律法主義をもたらすことになります。

十戒の解説書の題名の中に自由という言葉を用いている本があります。例えば『自由の擁護』とか『自由の道しるべ』とか。表題にしなくても、自由を巡る内容を記している本は多い。そして関連聖句として、ガラテヤ書の聖句を挙げています。この自由を得させるために、キリストは私たちを自由の身にしてくださったのです(五・一)。ガラテヤ書は、救われるのにはキリストを信じるだけでなく律法順守も必要だという考えに対して、パウロが、救われるのはあくまで恵みに拠るのだと福音の本質を語った手紙です。「この自由」とは、律法主義からの自由を指しています。

イスラエルの民はエジプトの国で、奴隷でしたから自由はありませんでした。そこから導き出されて解放されて、はじめてイスラエルの民は自由の身になった。それが語ることは、この自由は与えられた恵みであるということです。自由の原点はこの救いにある、と聖書は語っている訳です。

 

パウロは続けて語ります。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。奴隷とはガラテヤ書では律法主義のこと。出エジプト記では奴隷は文字通りの奴隷。申命記では奴隷の概念が広まっていて、自分がそれに心奪われている、自分にとってそれが神様になってその奴隷になっている。お金、地位に思いがとらわれるなら奴隷状態です。病になり余命宣告されて死の不安に怯え自分を失うなら、それも奴隷状態です。パウロは奴隷の軛にとらわれてはならないと言います。奴隷状態から自由の身に成ったら、今度は努力してこの自由を守り造り上げて行く責任がある。恵みとして与えられた自由を守り、歴史の中に絶えず造り上げて行かねばならない。

 

日本国憲法は前文をこう書き出しております。「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、我らと我らの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土に亘って自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」。

その第十二条でこう表現します。「この憲法が国民に保証する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民はこれを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」。そして自由および権利を第十八条以下の条文で具体例を記します。奴隷的拘束及び苦役からの自由、思想良心の自由、信教の自由、集会・結社・表現の自由、通信の秘密保持、居住・移転及び職業選択の自由、外国移住及び国籍離脱の自由、学問の自由などの権利の項目を掲げています。

これらは歴史の中ではいつも擁護、守り続けていく必要がある。昨年来大きなニュースになっている香港のデモ、昨日の台湾の選挙、これらは、表現の自由を奪い不当に拘束し自由を剥奪しようとする中国の権力に対して示した、努力、保持、責任を負う彼らの自由への戦いであります。自由は絶えず歴史の中に形成していかねばならない。

 

十戒は何々しなさいと強制を語ろうとしているのではありません。むしろ逆です。奴隷の軛に繋がれてはいけない。奴隷状態、律法主義からの自由を語っている。そしてまた、その自由は無責任なやりたい放題、無律法主義ではありません。ガラテヤ書が併せて語る言葉で言えば、兄弟たち、あなた方は、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛に拠って互いに仕えなさい(五・一三)。愛への自由を語っています。

愛に拠って互いに仕えるのは、隣人に対してであることはよく判るのですが、第一戒では誰よりもまず、主なる神様に仕えます。これを忘れる訳にはいきません。神様が奴隷の家から、そして罪の縄目から私たちを導き出し救い出して下ったのですから、その神に仕えます。

法律上、思想信教の自由は、強制されないという意味でその思想を持たない自由、その信教を信じない自由をも保証しています。信じない自由は大切ですが、しかし、それが全てではありません。神様が愛を以て自由を与えて下さったということを踏まえて神様の御顔に向き合うなら、信じない自由を選ぶということは考えられないことです。

 

昨日、中山昇先生を偲ぶ会がありました。ご著書から引用したいと思います。清教学園は、戦前の教育と戦争の反省を踏まえて、真理と平和と人間の主体性(=自由)を求めて造られた学園です。中山先生が、清教学園中学校初期の十七年を記しました『芽生え育ちて地の果てまで2』。その最後の章で高校開設のことを記しておられますが、そこで掲げているのがこのガラテヤ書の聖句です。

そして「新校舎に移る」と題しての生徒の文章を引用しております。この中学三年生の生徒は、清教学園の教育の中で、日本国憲法の精神、そしてこの十戒の精神、またパウロの言葉を、自分の言葉で言い表していると思います。一部割愛してご紹介したい。「理想を掲げて私たちは今、新しい学園に移っていきます。アメリカに移って行った清教徒たちのように。そこで自由という事を考えてみました。自由にして良くなるのも、悪くなるのも、その人の心がけ次第です。そして人が自由を与えられた時、何も考えなくなって、身勝手

なことをしてしまう事の方が多いと思います。だから自由とはなかなか扱いにくいものです。それで新しい校舎で自由をどう使うかです。先生から、ああしなさい、こうしなさい、など私たちが考える前に言われては自由がなくなります。礼拝の時に『私たちは神様から自由を与えられている。だからもっとよく神様の心を考え、それを正しく用いなければならない』ということを言われたのを覚えています。私たちは新しい校舎で新しい校風を産み育てて行くことになります」。

この生徒が記すのは、憲法の語る「自由がもたらす恵沢を確保し」、「国民の不断の努力によってこれを保持」する事と同じです。恵沢、辞書には単純に「恵み、お情け」とありました。十戒の語る自由は、恵みですがお情けではありません。神様の愛に拠る。民は出エジプトに於いて、私たちは十字架に於いて、神の愛に触れたはずです。

この第一戒の「私をおいて」の言葉を「私の顔の前で」あなたは他に神があってはならないと説明することが多い。神様の御顔と私の顔が向き合う、ここに愛の人格的関係が起こる。身勝手なことをしてしまう時に大事なことは、御顔を前にすることです。礼拝はそういう所です。これによって、他のものを神とすることは考えられず、私たちが神様の前から失われる者になることもない。

 

私たちは、私を救い出して下さった神様を信じることが出来る。十字架にまでかかって私たちを罪から贖い出して下さったキリストを信じることが出来る。この神を信じる自由を与えられている。それは大きな恵み、また大きな幸いです。戦前の日本は、この自由は十分に保証されていなかった。これを思うと、自ら信じる自由をないがしろにするなんて考えられないですね。真の神様を神とする。そしてここから、愛によって互いに仕え合う新しい共同体の形成も土台が据えられる訳です。