詩編四六・ 九~一二
ルカ二三・二二~二五
今年も受難節を迎えています。今日の使徒信条は 「ポンテオ・ピラトの下に苦しみを受け」の箇所です。神の御子キリストはマコトの人となられました。神のまま天上から歴史の外から「お前たち救われよ」と仰って私たちを救ったのではありませんでした。人となられました。それも一瞬、歴史に触れられた、十字架の死の時だけ人となられて罪を贖って下さったのでもありませんでした。そうではなくて、母マリアに宿った時から十字架の死に至るまでのおよそ三十年余り、どっぷりと歴史に浸かって、人であられました。 まずポンテオ・ピラトについて。これは人の名前で、主イエスのおられた頃、この地方の行政官としてローマ総督の地位にあり、死刑判決を下す権限を持っていました。そして主イエスを十字架につける判決を下した人物です。 使徒信条に登場する人物の名前は、主イエスとマリアとこのピラトの三名ですが、ピラトの名前を記すことによって、主イエスが確かに世界史、歴史の実在の人物であったことを明確にしています。即ちピラトがこの地域のローマ総督であったのは紀元二六年から三六年でした。ですから主イエスが十字架につけられ死んだのもこの期間であったと言える。それで、福音書は作り話でも神話でもなく、その核、基になる部分は歴史の出来事であったと言えることになります。
使徒信条の記述は「処女マリアより生まれ」から受難の出来事へと、その御生涯について記していません。それはご生涯がどうでもよかったということではなく、その三十年余の地上のご生涯を、使徒信条は「苦しみを受け」と表現しているということです。そしてその苦しみは主イエスだけの苦しみだったのではなく、私たちの苦しみを受けられたということでもあります。
生き生きと生きられれば喜びにもなりますが課題として見えてくる場合もあります。私たち人間が抱える課題、仮に五つに整理してみますと、①病気や障がい故の身体的生命の課題、②社会的地位などの社会や経済の生活の課題、③生きがいや使命感などの人生の課題、④公私に亘る対人関係の課題、そして⑤罪の赦しや死後の希望といった神との関係の課題。課題はそれを乗り越えるチャンスとも捉えることも出来ますが、その人にとって乗り越えられない様々な苦しみと死の問題となって迫ってくる事柄も多いわけです。
その一端を福音書の登場人物から見たいと思います(マルコ五・二五~)。ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、益々悪くなるだけであった。この一文だけで、病の課題、経済の課題、悲観ばかりの人生の課題が浮き彫りになっています。それで彼女がしたことは……、イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。群衆の中に紛れ込み後ろから主イエスに近づく仕方に、彼女の対人関係が浮き彫りになっている。自分を取り巻く人々にも主イエスにも、自分のことを知られたくない、彼女の置かれた社会状況が見えています。病の故に汚れた人間と見做され、人々と触れ合わないように謂わば隔離されてしまう当時の宗教的状況も垣間見えます。幾重にも重なる苦しみが彼女に重く覆い被さっていました。どれ一つ取っても彼女一人の力で乗り越えられるものではありません。
この彼女にとって、主イエスのことを聞くことが出来たのは幸いでした。主イエスのことが一途の頼り、希望となりました。後ろから気付かれないように近寄って主イエスの服に触れます。すると病が癒されました。けれどもそれで事は終わらなかった。「私の服に触れたのは誰か」と主イエスが辺りを見回された。この時、彼女はこれを無視して群衆の中に紛れたまま身を引いていくことも出来たはずです。でも出来なかった。何故か?女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなったからです。恐ろしくなったのは叱られたからではありません。神がここに顕れたという彼女に起こった啓示体験です。それでわざわざ震えながら進み出て平伏し、礼拝をささげました。そして全てをありのまま話した。全てですから、これまでの十二年間の苦しみ全てです。 この彼女に対して主イエスはこう応えられました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」。主イエスのお言葉は、彼女への共感を表しています。しかし、あなたの気持ちは分かるよ、というだけの共感に留まらない。その全てを共有します。私があなたの苦しみの全てを担おうという共有です。彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであったという苦難の僕としてのお姿がここにある。これを信じることへと導かれた彼女の信仰がここにある。ここで明らかなことは、苦難を担うキリストの救いは、彼女に届いた。人間に関することで主イエスに無関係なものは無いということです。元気に暮らすというのは、ただ病気が癒されるからではない。苦しみを全て負って下さる救い主がこの自分に関わって下さったことを信じるからです。
さて「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」。ルカ福音書が記すピラト。ここでは彼は主イエスの無実を主張しています。ピラトは三度目に言った。 「一体、どんな悪事を働いたというのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう」(四、一四、二二節で3回)。 けれどもそれを打ち消す群衆の叫び声もあります。(五、一八、二一、二三節で4回)。その声は益々強くなり、そこでピラトは彼らの要求をいれる決定を下した(ルカ二三・二四)。真理が不真実に負けるということがピラトの思いの中で、歴史の中で、起こる。ピラトは人の罪の声を聞いて、真理を曲げた。何という不条理。これが歴史の中で起こる歴史の現実です。今も続いている。真理がねじ曲げられる不条理とその結果の苦しみを主イエスは十字架で担われる訳です。 でも……、真理が通らないのが歴史の現実だと諦めるのでしょうか。一九八〇年代の冷戦が厳しかったあの時代、西ドイツのヴァイツゼッカー大統領が、東西ドイツを分断するベルリンの壁を見ながら「こんな非人間的なものは歴史の中に長続きしない」と言ったとのこと、その記事を読んだことがあります。主イエスが不条理を負って下さった以上、それは永遠に続くものではないはずです。一方で不条理が起こり、しかしそれは神によって肯定されるものではないと信じます。
主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。地の果てまで、戦いを断ち弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。「力を捨てよ、知れ、わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる」。万軍の主は私たちと共にいます。ヤコブの神は私たちの砦の塔(詩編四六・九~)。これも歴史の現実であることを信じます。歴史の完成は、神の真理が世の罪に打ち勝ち、主の栄光がたたえられることです。私は、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚された我が大いなる名を聖なるものとする。私が彼らの目の前で、お前たちを通して聖なるものとされるとき、諸国民は、私が主であることを知るようになる、と主なる神は言われる(エゼキエル三六・二三~)。 ピラトの下に苦しみを受けて、歴史の私たち全ての苦しみを負って下さる主イエスのお姿に、私たちは、イエスが主であられることを知ります。聖餐式において、苦しみを受けられた主を味わい、あなたこそ主であられると告白します。