日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2020年3月1日 説教:森田恭一郎牧師

「主を求め、そして生きよ」

申命記 五・一七
Ⅰヨハネ三・一四~一八

今日は十戒の第六戒、殺してはならないの御言葉を味わいます。銃で撃ったりナイフで刺したり、身体的に殺してはならないのはもちろんのことです。更に今日の新約聖書は、人殺しの概念をもっと広く考えていることが分かります。兄弟を憎む者は皆、人殺しです(Ⅰヨハネ三・一五)。実際には殺していなくても、憎むこと自体が既に人殺し。あんな人いなければいい、そう思って憎む時、あなたの心は人を殺しているではないか、と言っている訳です。

聖書が記す最初の殺人は、カインとアベルの物語です。カインはどうして弟アベルを殺してしまったのか。カインは激しく怒って顔を伏せた(創世記四・五)。もちろんカインにすればもっともな理由があります。自分は一生懸命働いて、土の実りの一番良いものをきちんと献げた。弟も一生懸命働いて羊の群れの中から肥えた初子をきちんと献げた。どちらの方が良い、悪いということはないのに、なぜか解らないけれども、神様はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げものには目を留められなかった。神様は承知の上でこう仰います。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか」。何故怒るのか。悪いことはしていないのにと思うなら、堂々と顔を上げて申し立てすればいいではないか。もし自分の側に落ち度があってこうなったと思うなら、正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求めるのだから、すみませんでしたと謝って、お前はそれを支配せねばならない。けれどもカインは怒り収まらず、結局、弟アベルを殺してしまいました。殺してしまった原因は、カインにすれば元はと言えば神様のせいだと言いたい所でしょうけれども、彼は激しく怒って顔を伏せた。そこに殺人の原因がある。カインの怒りの激しさ、それはどれ程のものであったでしょうか。

 

エフェソ書は、怒ることがあっても罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません(エフェソ四・二六)と語ります。カインの激しい怒りは、日を越してしまったのではないでしょうか。怒りがその当日だけではなく、翌日も翌々日まで持ち越されてしまう。こういうことが私たちにもある訳です。怒りが続く。どう考えても相手が悪い、自分は一〇〇%被害者だ、そう思う程、怒りは収まらなくなってくる。

本人にとっても相手にとっても不幸なことです。新しい前向きの関係を作ることが出来なくなるからです。怒ってばかりいると周囲の者は離れて行くか、逆に怒り返して関係が益々こじれてくるか、どちらにとっても良いことはありません。一日で終えなければならない。日が暮れるまでに冷静にならなければなりません。どうしたらほとぼりを冷ますことが出来るのだろうか。

それは、キリストによる罪の赦しに思いを向けることです。主は、私の罪を赦し、相手の罪をも赦しておられる。この事に思いを向ける時、私たちは怒りを神様に差し出すことが出来る。神様に受け取ってもらえる。これがないと怒りを翌日へと持ち越してしまいます。何とか相手といい関係を作って行きたいものだと思います。

 

殺してはならない。何故殺してはならならないのか。聞かなくても解りきったことのようですが、けれども、他の生物を殺してその命をいただいて、いただきますと毎日食事をして自分自身は養われ生きている。他の生物を殺して生きて行く自然界の秩序を思うと、何故人間だけ殺してはいけないのか。命は大事、命の価値がある。物と違って他に代えられない、たった一つしかない、いわば希少価値があるとよく言いますが、そう言う割には戦争で人を殺しているではないか。案外、答えは難しい。

命は、命そのものに価値があるから殺してはいけないというのではありません。命には神様が与えたもう尊厳があるから殺してはならないのです。神様が愛して下さっていることに基づく尊厳です。人間の外から神様が「殺してはいけない」とお語りになるからです。シナイ山で天からの声として仰るから私たちは殺してはならないのです。それ以上の理由を問うても、答えられない。神が愛して下さるその尊厳からだとしか言いようがない。

 

十戒は、どの戒めも顕現句との関係が大事だと確認してきました。第六戒も同様です。エジプトの奴隷状態の下で、奴隷たちはいつ殺されるか分からない、一人ひとりの命が大切にされるということが全くないままに、奴隷としてこき使われていました。その奴隷状況の下から救い出されて、安心して生きられるようになった。だからこそ「私を求めよ、そして生きよ」(アモス五・四)と聖書は言っている訳です。

生きよの反対の言葉は死んではいけないです。

今日、新型コロナウィルスに感染しないように、窓を開け礼拝時間を短くするのも、死んではいけないからです。でもよく読むと第六戒は、殺してはならない。この言葉の反対は生きよではなく、更に強い表現で、生かせになります。第六戒が本当に言いたいのは、生かせということでしょう。

 

何故か。それはキリストがこう仰ったからです。「私が命のパンである。私の下に来るものは決して飢える事がなく、私を信じる者は決して渇くことがない。私は天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(ヨハネ六・三五、五一)。そう言われたキリストは十字架で死ぬことによって、私たちを生かして下さいました。また、イエスは私たちのために命を捨てて下さいました。そのことによって私たちは愛を知りました。だから私たちも兄弟のために命を捨てるべきです(Ⅰヨハネ三・一六)。主イエスが命を捨てて下さったのは私たちを生かすためです。生かせ。この戒めをその通りに成就して下さったのは主イエス・キリストご自身です。そういうキリストの命がささげられている私たち。だから殺してはならない。そういうキリストの命がささげられている相手だから、殺してはならない。いや、生かす、生かせ、ということになります。私たちはただ自分が生きるのに留まらず、お互いを生かし合うように、共同体を作っていきたい。怒ることを一日で終えて、お互いに生かし合う共同体として歩む。そう歩んで行くようにと、第六戒は問いかけ促しています。

神様が生かせと言って下さったこと、私たちの罪を赦し、相手の罪をも赦し、お互いに生きるようにと、更に生かし合うように神様がイエス・キリストを遣わして、私たちを導いておられる。キリストの御業に思いを向けてこそ、何故生かし合うのか解るし、生かし合うことが初めて出来る。第六戒の示す豊かさであります。