日本キリスト教団河内長野教会

メニュー

kawachinagano-church, since 1905.

説教集

SERMONS

2020年4月5日 説教:森田恭一郎牧師

「喜ぼう、他者の幸せ」

申命記 五・二一
マルコ一五・一〇

今日は十戒の第十番目の戒め、あなたの隣人の妻を欲してはならない。隣人の家、畑、男女の奴隷、牛、ろばなど、隣人のものを一切欲しがってはならないの御言葉を味わいます。欲しがってはならない、貪ってはならないと訳されもします。食欲によって食べたい。これは正常なものです。でも食欲が貪欲になると食べ過ぎになります。食べ過ぎる。これは自分だけの問題です。それが、しかし、あなたの食べているそのお菓子、おいしそうだね、私も欲しい、それ頂戴、と分かち合いを超えて他人のものまで手を出すようになると、貪ること、欲することになってしまいます。

 

あなたの隣人の妻を欲してはならない。これは姦淫してはならないとどう違うのか、少々解りにくい。ダビデは、バト・シェバという人を求めて姦淫した。でもそれで終わらない。ダビデは彼女の夫「ウリヤの妻を奪って自分の妻とした」(サムエル記下一二・一〇)。「ウリヤの妻」という立場を「自分の妻」という立場にしようと、夫を殺しました。夫への攻撃的な関係は、美しいバト・シェバを妻にしているなんてあいつは…という妬みから来るもの。それが、ダビデが実行してしまった「隣人の妻を欲する」ということです。

福音書は、主イエスが十字架に付けられるに至る理由を的確にたった一言で言い当てます。祭司長たちがイエスを引き渡したのは、妬みのためだと分かっていたからである(マルコ一五・一〇)。

妬みです。

このことが分かっていたのは、ローマ総督ポンテオ・ピラトです。何故彼がこれを見抜いたのか。それは彼自身、妬みを持ってきたからです。総督とは、権力を象徴する立場=地位です。初めは、誰かがその地位に付くと「おめでとうございます。良かったですね」とお祝いする。しかしそれは「羨ましいな」となり、更に「なんであいつだけがいい思いしているんだ」と妬みになる。その妬みは隣人に対する関係というより「隣人の地位というもの」を欲する権力闘争になっていく。それがこの戒の言う「ものを欲する」ということです。そして権力の座に着くと、妬まれる側になったと本人はよく分かっていますから、妬んでくる相手を押さえつけようとする訳です。

祭司長たちは、主イエスが素晴らしい教えを語り、福音を告げ、病の癒しの御業を行い、人々が受難週の第一日目も、ナツメヤシの枝を持って主イエスをエルサレム迎え「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように」(ヨハネ一二・一三)と歓呼する。このような人々の姿を見れば見る程、祭司長たち権力の座にある者は益々妬みの思いが抑えられなくなる。それで偽証でも何でもいいから理由をこじつけて、主イエスを十字架に付けようとした。これをピラトは見抜いている。

 

いつも考えますように、この十番目の戒め、欲するなは、その反対は何か…。欲するとは、相手の素晴らしさ、相手の幸せを素直に喜べないで妬んでしまうことですから、反対に、相手の素晴らしさ、相手の幸せを喜べること、祝福できることです。それで今日の説教題を「喜ぼう、他者の幸せ」としました。

私は、説教の準備にあたり当初、このことを語ればそれで良いと思っていました。そうなのですが、今、コロナウィルスのことで、もう一つ考えさせられています。

今朝の報道で、昨日の感染の判明した方たちが、東京では一一八名、大阪で四一名、自治体が外出自粛要請する前に感染した人であろうから、今、外出を控え、密閉、密集、密接の三蜜を防げば、感染者は減って行くかもしれませんが、油断は出来ません。私たちの教会も、教会の皆様には、本日、家庭で礼拝をささげて下さい、と昨日電話連絡網を通して要請しました。今日のこの礼拝も、今まで以上に、密閉を防ぐために大きく窓を開けて換気をし、密集を防ぐために間隔を空けて座り、密接を防ぐためにマスク着用など口を覆って戴き、聖餐式も執り行わないことにしました。

今日この後の長老会で決めますが、恐らく、家庭での礼拝を願うのは、少なくとも、もう二回は続くと思います。来週のイースター礼拝、そして再来週に予定しておりました洗礼式も延期することになると思います。そうなりましたら今日だけでなく、次週以降もホームページに礼拝順序と説教原稿を掲載しますので、それをご覧いただきながらご家庭で礼拝を捧げて戴きたいと思います。電話連絡網でお伝え出来なかった、今日ご参集の方も、次週と再来週は同様にお願いすることになると思います。

それで思ったことは、こういう時にこそ、不安をあおられるのではなく、危機意識を以て冷静に状況を判断できるよう、心の内にみ言による慰めと勇気づけを戴きたいということです。

 

教会の掲示板に、大きな虹の絵を張り出してみました。以前、教会学校の生徒が描いてくれたものです。そこに「虹は救いの約束、希望のしるしです」と添え書きしました。希望をしっかり持ちたいものです。今、身近な方を亡くされた方、命の危険にさらされている患者や医療スタッフの方、生計の維持の困難の中にある方たち等々、暗闇を経験しています。

暗闇の中で、主よ、嘆き祈る声に耳を傾けて下さい。あなたのまこと、恵みの御業によって私に答えて下さい(詩編一四三・一)。そんな気持ちです。そのような中でこういう文章を友人の牧師から知ることができました。ある説教集からの引用です。「今、先の見えない闇の中に置かれている人よ。静寂を保ちなさい。神は時々、私たちに闇の訓練を課せられる。それは、私たちが神に聞くことを学ぶためである。美しい声で鳴く鳥たちは、暗闇の中で歌う事を学ぶ。同じように私たちも、神に聞くことを身に付けるまで、私たちを神の御手、御翼の陰に入れられる」。

神様がそのためにコロナウィルスをもたらしたとは思いません。ただ現実は否応なしに、不条理に暗闇の中に追い込まれてしまう。その時に、自ら不安をあおるように暗闇の中で口を開くよりも、静寂の内に神に耳を傾けよう。そのような時として暗闇を用いよう。危機はチャンスと言われますが、神様は悪を善に、困難を幸いに変えられる。主イエスは暗闇で語って下さる。十字架から語って下さり御業をなしたもう。彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛み(イザヤ五三・四)。それを私たちは明るくなった朝に言い広めよう。そのようにして、みんなの幸せ、キリストの備えて下さる希望を忘れないようにしよう。

 

祈り

天の父なる神様。御名をたたえます。世界中が暗い闇の中にあります。感染症拡大が終息し心身共に健康が守られますように。感染症と闘う私たちを支えて下さい。苦闘の中にある患者や医療スタッフの方たち、近しい最愛の者を亡くされた悲しみの中にある方たち、働く場を失い困難の中にある方たち、その家族や子供たち、教育や保育で子どもたちと家族を応援する方たち、新しいアイデアを以て社会の繋がりを作り出す若い方たち、祈りをささげる私たち一人ひとりを支えて下さい。今、みんなの幸せを社会全体が願っている。辛い中にも幸いなことです。今週は受難週です。金曜日のご受難、土曜日の暗闇、病や痛みを負い給うキリストは日曜日の朝を備えて下さいます。見通せない暗闇の中にありましても、キリストが備える希望に向けて、今のこの時期を共に歩む者とさせて下さい。主キリストの御名によって祈ります。