日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2021年4月4日 説教:森田恭一郎牧師

「主は復活された」

イザヤ二五・六~一〇
ヘブライ二・一四~一八

イースターおめでとうございます。あの朝まだ暗い内、墓に出向いた婦人たちはこう告げられました。「驚くことはない。あなた方は十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である」(マルコ一六・六)。お墓の中には主イエス・キリストはおられません。十字架に付けられた主イエスは死人の内より復活なさいました。今日のヘブライ書が記す甦りに関わる文章は一五節。死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。

 

キリストは、血と肉、すなわち肉の身体を備えた者としてこの地上に到来されました。その地上のご生涯は、身体を持つ故の喜びと労苦を担い、また人間の心を共に経験するご生涯でした。生まれた時には布にくるまれ飼い葉桶に寝かされ、ヨセフは早く亡くなって母子家庭の中で一家を支え、そして生涯の終わりには侮辱されて十字架に付けられて死んでいく。それをヘブライ書はこう表現しました。イエスは、全ての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです(ヘブライ二・一七~一八)。私たちが夫々自分の人生で経験する苦楽、とりわけ試練の中で身体的に辛い痛みを経験し、精神的にも苦しい思いをする時に、更に、私たちが死の恐怖に怯えるような時でさえも、主イエスは全てをご存知でいて下さる。共にいて下さる。そう信じることが出来るのは、何と大きな慰めでありましょうか。

 

もっとも、主イエスが試練を受けて苦しまれたその苦しみは、私たちが経験するどの苦しみよりももっと苦しいものだったに違いありません。

例えばその悲しみ、悲しみと言う用語は共観福音書では二つあるのですが、紹介しますと、悲しむ人々は幸い、その人たちは慰められる(マタイ五・四)という悲しみで終わらない慰めのある悲しみ。もう一つは、主イエスがひどく恐れてもだえるようにしながら「私は死ぬばかりに悲しい」と言われたゲツセマネで祈られたあの悲しみ、それは慰めの無い悲しみです。

それから、主イエスが十字架上で叫ばれた「我が神、我が神、何故お見捨てになったのですか」(マルコ一五・三四)、それは罪の裁きとしての死であり、私たち人間には直面出来ない神の御子にしか担えない死の現実であり死への恐れを示しています。いずれも、主イエスの担われた悲しみや死の苦しみは、私たちにそれらを経験させないために主イエスだけが担われたものです。

だからこそヘブライ書は、主イエスの死は、全ての人のために死んで下さった(ヘブライ二・九)死であり、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるため(ヘブライ二・一五)の死であったと言っている訳です。私たちがどれ程、深い悲しみに沈んだとしても、主が既にその苦しみをご存知であるが故に、主を仰ぎ望むならば慰めのある悲しみであり、私たちが迎える死をどれほど恐れたとしても、少なくとも神に見捨てられる死ではなくなっています。死のとげ(Ⅰコリント一五・五五)は既に抜かれています。

ハイデルベルグ信仰問答の言い方で表現すれば、私たちの死は、自分の罪に対する償いなのではなく、むしろ罪との死別であり、永遠の命への入口なのです(答四二)。また、イザヤが預言したように、主はこの山で、全ての民の顔を包んでいた布と、全ての国を覆っていた布を滅ぼし死を永久に滅ぼして下さる。主なる神は、全ての顔から涙を拭い、御自分の民の恥を、地上から拭い去って下さる(イザヤ二五・七~八)。私たちは、血と肉の身体を抱えていますので死を迎えます。私たちは心も悲しみの涙を経験します。でもそれは、既に主が私たちを死の恐怖から解き放って下さった死です。主による慰めに包まれた悲しみです。

 

さて、主イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、全ての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです(イザヤ二五・七~八)が、「大祭司」はヘブライ書二章のこの箇所で初めて使われる言葉です。ご存知のように、ヘブライ書の主題は、「主イエスが大祭司となられたキリスト=救い主」ということです。旧約の時代以来、大祭司は動物の犠牲をささげます。動物に人間の罪を背負わせ、動物は人間の代わりに裁きを負って屠られます。大祭司だけが入れる至聖所にその血を携えて進み行き、その血を以て全てを清め神と民の契約を更新する。そうやって民のために執り成しをする。

主イエスは、「神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって」下さいました。「御前において」はただそこにいてというよりも、「御前に向かって」という言葉で、人間の大祭司が血を携えて至聖所に進み行くことを連想させてくれます。

但し、旧約時代からの大祭司と一番異なるのは、犠牲として動物をささげるのではなく、キリスト御自身を小羊としておささげになったということです! ご自身の血を以て民を清めます。ヘブライ書はこの大祭司になられたキリストを語ります。この大祭司の務めを担うために、人間と同じ血と肉を備え、人間としての人生の苦しみを味わい、兄弟たちと同じようになって下さり、犠牲としての死を担われたのでした。

 

このようにキリストは、兄弟たちを死の恐怖の故に奴隷状態になっている所から解き放つために、私たちと同じになられました。降られる下降の動きです。血と肉を備えられて、私たち以上の死を担われました。そして地上での大祭司の務めを果たし、いやそれだけではありません。もっと降られて陰府にまで行き、そこでも大祭司の役割を果たされました(Ⅰペトロ三・一九参照)。

今度は上昇です。甦られ天に挙げられ神の右に座して、今は私たちのために執り成しを続けておられます。であるならば、血と肉を備えられた主イエス・キリストは、今度は私たちの方を主イエスと同じようにして下さり、私たちを天に挙げて下さいます。私たちも甦らされ、新しくされ、朽ちない者にされます。

今は地上にいる私たちに対して、その希望を与えてくれています。死の別れは地上では悲しみをもたらしますが、キリストは死の恐れを取り除いておられます。死は永遠の命への入口になっています。大祭司キリストが、いずれ再び天から降って来られ、今度は私たちを天へと引き上げ、天上の食卓へと招いて下さいます。