日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2024年10月13日 説教:森田恭一郎牧師

「主は一人、信仰は一つ」

エレミヤ一・四~八
エフェソ四・四~八

今日は『A・D・ヘールに学ぶ』の居留地の雰囲気の記事(三四頁~)をきっかけに「主は一人、信仰は一つ」について思いを深めます。弟のJ・B・ヘールの記した記事をご紹介します。       我々が来た頃(一八七七年。明治十年)、政府のお雇いの外国人以外は、居留地に住むことを余儀なくされた。居留地とは外国人の居住地として隔離された土地で、ここは日本政府の支配下にはなく、外国公使や領事の管轄の下にあった。私が到着した頃、大阪には、アメリカン・ボード、英国監督教会(聖公会)、米国監督教会などのミッションがあった。先着の宣教師達は心から歓迎してくれた。彼らは家庭やミッションの交わりに我々を迎え入れ、我々のために神の祝福を祈り、あらん限りの援助を惜しまなかった。          我々は全ての宣教師が参加する合同祈祷会を持

った。そこでは教派の違いを忘れ、我々は全て一つなる神の子であり、さまよえる神の子らに父の愛を知らせるという同じ働きをするものであった。だから、宣教師達はいついかなるときも互いに助け合おうとした。しかも、夫々は会衆派(組合教会)であったり、監督派(聖公会・メソジスト教会)であったり、長老派であったのだ。このように、異教徒の只中にあって、この地上のどこにも見出すことの出来ないような隣人、キリスト教宣教師の交わりを我々は持ったのである。中山昇はこれらの記事からこう記します。この交わりの中で、諸教派の自主と一致の大切さを学ばれたことがうかがい知れる。主は一つ、バプテスマは一つ…。

 

キリストを信じる信仰の基本は一つです。その基本部分を言い表しているのが、使徒信条やニカイア・コンスタンティノポリス信条などのキリスト教会世界共通の基本信条です。宣教師たちも、教派は異なっても、この点の一致があるから基本的な信頼を分かち合うことが出来た訳です。この基本信条にアーメンと唱えられなければ、いくらキリスト教を装っていてもキリスト教の異端になります。反社会性を持つなら更にカルトになります。私たちの教会は基本信条の一つである使徒信条を本文とする信仰告白を告白することによって、正統的なキリスト教会に連なっていることを言い表していることになります。                 キリストを信じるキリスト教会とキリスト教徒が一つになれるのは当たり前ではないかと思われるかも知れませんが、これらの文章の前提には、教派は越えが難い相違があるということです。教義の相違、教会論の相違があります。今日は世界聖餐日ですが、この日の背景には、聖餐理解の相違があって、カトリック教会とプロテスタント教会の宗派だけでなく、ルター派とカルヴァン派、カルヴァン派の中でも長老派と会衆派などのプロテスタント諸教派がどうしても一致できなかった点が聖餐理解です。

一致の難しさについては、また社会的相違もあります。アメリカなど今はどうなのでしょうか、どの教派の教会に属しているかということと、その人の社会層とに相関関係があり、社会的な相違も起こります。

こういった宗派や教派の相違というのは、終末にならないと解消されないと思います。教派の一致を求めるエキュメニカル運動がありますが、実際に一致できると思うのは早計です。これらの運動に安易に加わると、自分の属する教会から離れて、浮足立った信仰になりかねません。教派が解消されないのは、教義の必然性があり、そこに歴史的、文化的必然性もついてまわるから、決して簡単ではありません。だからこそ、世界聖餐日を制定して「主は一人、信仰は一つ」ということを終末の完成に向けて祈りの課題にしている訳です。

 

こういう背景を考えると、J・B・ヘールが記した居留地での宣教師たちの教派を越えた交わりは、アメリカなどの本国では考えられないことであって、だから、キリスト信仰の一体性を体感する感動があり、全くの異教の地で伝道していく宣教師達を支え励ましたのでしょう。それはただ彼らがお互いに援助し合う仲良しでなったという事を越えて、教派に縛られない、事実上の教会の交わりでありました。彼らは合同祈祷会を持ったとあります。当然共に聖書から御言葉に聴き、共に祈り、祝福を与え合い、主を共に拝む信仰の交わりであり、宣教師としての使命を確認する場でした。

 

「主は一人、信仰は一つ」。この言葉から思い起こすのはこの聖句です。体は一つ、霊は一つです。それは、あなた方が、一つの希望に与るようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、全てのものの父である神は唯一であって、全てのものの上にあり、全てのものを通して働き、全てのものの内におられます(エフェソ四・四~六)。全てを貫く唯一の神の御支配を語る壮大な信仰の言葉です。当時の初代教会が置かれていた状況は、宗派や教派はありませんでした。小さな群れであり、異教徒に囲まれていました。そのような中で、信仰を貫く信仰の群れ、礼拝をささげる教会がとても大事でした。教会の群れあっての励ましを受けることが出来ます。                           日本の私たちにとっても今も同じでしょう。私たちの教会の交わりも、私たちが宣教師でなくても同じなのではないでしょうか。私はあなたの掟を楽しみとし、御言葉を決して忘れません(詩編一一九・一六)とあるように、教会の楽しみは御言葉を忘れない楽しみ、主イエスを共に信じて拝む事の出来る楽しみ、聖餐に与る教会にしかない楽しみです。地域の人たちに教会に来てもらおうといろんな楽しみを教会でもやってみたら、と考えることもありますが、世の楽しみを楽しむなら教会よりも巷に出て行く方が楽しいでしょう。壮年会や婦人会の交わりはもちろんのこと、そもそも教会の交わりの持つ楽しみは御言葉を楽しみ、十字架のキリストの救いに与り、キリストを信じる信仰を確かめ、信仰者として生きる励みを戴く楽しみです。                  この後、聖餐に共に与ります。宗派、教派によって聖餐理解は異なる面があるとは言え、広く言えば世界中の教会、信仰者たちと共に、一緒に聖餐に与ります。また河内長野教会の皆さんも、信仰の一致があるのですから出来るだけ集い、共にみ言葉に聞き聖餐の恵に与りたい。必要な場合には、伺って訪問聖餐の恵に与りたいと願います。

 

お一人の神、キリストから与えられる信仰の一致を思います。同時に特に昨今は、多様性ということも言われます。一致と多様性は必ずしも対立するものではありません。多様な人たちがキリストにあって一致し得るからです。同じ目標に向けて夫々が多様な賜物を献げる。そして賜物は一人ひとりの長所というより、エフェソ書の言葉で言えばキリストの賜物のはかりに従って与えられている恵み(エフェソ四・七)です。自分の賜物と言う前に、まずキリストの賜物です。        旧約の預言者に神様は言われました。「私はあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」(エレミヤ一・五)。預言者として必要な賜物を神様が備えて下さいました。母の胎内に宿る前から、エレミヤに預言者として生きてもらおう。そのために必要な賜物を備えよう。ここに神のご計画、キリストの賜物のはかりに従ってということがあります。                     先日の祈祷会の折、今日のエフェソ書を味わいながら、ある方が言われました。「橋本牧師の時代、清教を生み出し、会堂を献げた。あの頃は一つになれていた」と。その時その時の一つの目標に向かって皆が気持ちを合わせ、キリストが備えて下さった賜物を夫々が献げた、ということでしょう。これからも、キリストがご計画に従って皆さん、夫々に与えて下さる賜物、これを用いる時、主にある一致を歴史の中に現していけるのです。

 

さて、今日は教会行事暦でもう一つ、世界宣教の日でもあります。この秋に送られてきた教団の世界宣教委員会の冊子を見ますと、日本基督教団からの派遣されている宣教師は九名、日本基督教団の諸教会や関係学校に派遣されている宣教師は五八名です。

今日は一つだけ皆さんと共有したいと思います。それは、河内長野教会は富田林教会と共に、ヘール宣教師によって建てられた教会、この地に植えてもらった教会です。ですから、宣教師の働き、宣教師を派遣して下さった教会のことを心に覚えておきたい、と願います。

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