日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2020年11月29日 説教:森田恭一郎牧師

「主の耳が、叫びの声を」

イザヤ五三・七
ヤコブ 五・一~六

教会暦では今日から待降節になります。待降節に思い深める事柄は何か。それが今日の考えたいことですが、御言葉の中から一つ紹介したいと思います。「悔い改めよ。天の国は近づいた」。この言葉を語ったのは、洗礼者ヨハネと主イエスです。全く同じ言葉ですが、言葉の持つ響きは全く異なります。

洗礼者ヨハネはこの言葉の前後でこう語っています。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると誰が教えたのか。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(マタイ三・七、一〇)。洗礼者ヨハネの言葉は、恐怖感を覚えさせ、反省の悔い改めを迫る厳しい言葉です。

主イエスの言葉は次のイザヤ書の引用を受けて記されています。「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」(同四・一六=イザヤ九・一)。だから「悔い改めよ。天の国は近づいた」。主イエスの御言葉は、光が射し込んでくる明け方のような、このキリストに思いを向ける悔い改め、その希望と喜びの言葉になっています。

 

今日のヤコブ書の言葉はどちらの響きだと、皆様お感じになりますでしょうか。富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分に降りかかって来る不幸を思って、泣きわめきなさい(ヤコブ五・一)。あなた方は、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした(同五・三)。あなた方は地上で贅沢に暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ(同五・五)……。もう明らかに、洗礼者ヨハネの言葉のように恐怖に慄かせる言葉だと感じます。ヤコブ書が語る、富んでいる者たちは、畑の労働者にも賃金を払わず、そうやって蓄えた財産は、朽ち果て、虫が付き、金銀も錆びてしまう。贅沢な暮らしをして、それらはあなた方の罪の証拠で、あとは、あなた方に不幸が降りかかって来るだけだ。自分の生活を維持するために必要な分以上の財産、公共の福祉のために用いることなく持て余しているだけの財産、これらは、朽ち果て錆びてしまう。まして賃金を支払わずに不正なことをして蓄えているのだから、あなた方は屠られる日に向かっているだけだ。ヤコブ書はそのように罪に定め、滅びを予告している。不正が不正として裁かれる。大事な事だと言えますし、また、だから悔い改めの実を結べと勧告している訳です。

ヤコブ書のこの箇所から、私たちが待降節に聴くべき「待つ在り方」とは、これが終わりの時のために待ち構えねばならない姿なのでしょうか。

 

この箇所を読んで興味深く思いましたのは、支払われなかった賃金が叫び声をあげているという表現です。もちろん実際の叫びは、刈り入れした人々の叫びです。そして慰めを覚えるのは、この叫びが万軍の主の耳に達した(同五・五)ということです。ここを読み、主イエスの天の国の譬え話を思い起こしました。ぶどう園の労働者の譬え(マタイ二〇・一~)です。朝(仮に六時)から働いた人も、正午から働いた人も、午後五時から働いた人も、夕方午後六時になって賃金をもらったら皆同額の一デナリオンだったという譬え話です。

 

朝から働いた最初に雇われた人は主人に不平を言いました。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いた私たちと同じ扱いにするとは」。不平を申し立てるのは当然です。主人は、朝、雇う時に一デナリオンの約束したことを思い起こさせて、こう言いました。「私はこの最後の者にもあなたと同じように支払ってやりたいのだ」。賃金を払う、それ以上に大盤振る舞いする気前の良い主人のようですが、主人の目の付け所は次のやり取りに現われています。五時頃にも行ってみると、他の人々が立っていたので「何故、何もしないで一日中ここに立っているのか」と尋ねると、彼らは「誰も雇ってくれないのです」と言った。

通常は、労働した分につき賃金を払います。暑い中、辛抱して働いた彼らなのですから。でも彼らには、誰も雇ってくれないという辛さはありません。主人は、午後五時までここに立ち続けた人たちの辛さにも目を向けています。それで彼らにも一日分の賃金を支払った。この彼らに支払われた賃金はどういう叫び声を上げるだろうか。この一家の生活のために、この家族の命のために、この私(=賃金)が役立って良かったと神様に叫ぶのではないでしょうか。

思えば最後にぶどう園に行くことの出来たこの人たち、彼らはその日午後五時まで遊んでいたのではありません。彼らも朝から仕事を求めていた。今日も頑張って働こう。今日の賃金をもらったら妻子の待つ家に帰ろう。九時、正午、午後三時、自分を雇ってくれる人は誰も現れない。それでもここに立ち続けたのは、雇ってくれる人が誰かいると信じて待ち続けたからです。その望みを以て待ち続けました。待降節の待つ営みには、この人も賃金を支払う主人の慈しみが隠されています。

 

さてヤコブ書に戻ります。終わりの所にこうあります。あなた方は正しい人を罪に定めて、殺した。その人は、あなた方に抵抗していません(ヤコブ五・六)。天の国の労働者たちとは異なって、地上の労働者たちは主人に向かって不平を言う事も出来ませんでした。それどころか殺されてしまうこともあったようです。奴隷扱いです。この、「正しい人、その人」はギリシャ語では単数形です。

労働者たち一人ひとりに焦点を当てていると言えましょう。

ただもう一つの理解の仕方があって、それは言うまでもなく、この単数形の正しい人とは、主イエスのことだという理解です。この正しい方、主イエスは、なる程、何も悪いことはしていないのに罪に定められ、十字架で殺されました。その過程において一つも抵抗することはありませんでした。抵抗どころか、一言も不平を漏らすこともありません。屠り場に引かれる小羊のように、毛を刈る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった(イザヤ五三・七)、あの苦難の僕のように、主イエスも一言も不平を言わず一つも抵抗しませんでした。当時の労働者たちにご自分を重ねるようにして、いやそれ以上に十字架への道を歩まれたのでした。

今日のヤコブ書は、この主イエスのお姿を思い起こさせてくれます。この主イエスが再び来たり給う。この主イエス・キリストに思いを向け、悔い改めよ、神の国は近づいた、今ある地上の日々の営みの中にあって、この福音の到来を待ち望みます。