日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2023年11月5日 説教:森田恭一郎牧師

「主の救い、全ての人に及ぶため」

エレミヤ三一・三一~四三
ガラテヤ 三・ 七~一四

信仰や教会の、こう言いますと軽く聞こえてしまいますが、キャッチフレーズ、うたい文句の表現があります。例えば、ルター派教会の信仰の表現は「信仰義認」。改革派の表現は「み言葉によって絶えず改革される教会」と言ったりします。

河内長野教会の信仰のキャッチフレーズは?と考えますと「栄光、神に在れ」ではないでしょうか。更に、どんな河内長野教会でありたいか。長老の定数を変更したのは「共に御業に仕え、支え合う教会」でありたいと願ったからです。地域の皆さんをも覚えて掲げた表現は「行ってみたい、また来てみたい河内長野教会」です。教会創立一二〇周年に向けて気付いたことを表現すると「地域の信頼に応えて」です。

それでは聖書の使信を表現するとどうなるだろう? 信仰告白の文章はその表現です。この枠で聖書を読めば基本的な所は誤りなく読めることになります。これを更に短く、分厚い聖書の使信をひと言で表現するとどうなるでしょうか。聖書の使信、私なりの表現をご紹介したいと思います。それは「聖霊の導きの下に、キリストの恵みによって救われ、恵みを信仰を通して受け取り、信仰によって生きる」です。私の説教の基本的枠組とも言えます。

 

今日のガラテヤ書は、聖書の使信の私なりの表現を語っていると思います。

まず、キリストの恵み、これを今日のガラテヤ書は、私たちを律法の呪いから贖い出して下さいました(ガラテヤ三・一三)。と語っています。キリストの恵みはキリストの贖いです。この恵みによって私たちは救われます。救われるというのは 「あなた方の故に異邦人は皆、祝福される」(ガラテヤ三・八)の 祝福されるとか、神は異邦人を信仰によって義となさる(同)の義とされるが救われることと同じです。キリストの贖いによって、祝福され義とされる。これはそのまま、キリストの恵みによって救われることです。

この恵みを信仰を通して受け取るは、私たちが、約束された〝霊〟を信仰によって受けるためでした(ガラテヤ三・一四)です。直訳すると信仰を通してという言葉です。恵みを信仰を通して受け取ります。

信仰を通して生きるはそのまま 「正しい者は信仰によって生きる」(ガラテヤ三・一一)です。

以上のように、今日のガラテヤ書は、キリストの恵みによって救われ、この恵みを信仰を通して受け取り、信仰によって生きる、ことを語っていると言えるでしょう。

 

さて、キリストの贖いは二つの方向を持っています。キリストご自身への方向と、ユダヤ人も異邦人も含めた全ての私たちへの方向です。贖罪においてキリスト御自身が担われたのは、もちろんそれは十字架にかかられたことですが、それは、私たちのために呪いとなって(ガラテヤ書三・一三)下さったことです。キリストは、十字架の木にかけられて呪われる者となられました。

私たちに向けては、呪いの反対の祝福です。アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶため(ガラテヤ三・一四)とある通りです。そして祝福の内容は義とされることです。祝福を受け義とされる、これがここで語っている救いです。

そしてこれら救いの出来事は、キリストの呪いの木の十字架の贖いの出来事で、私たちの外で、私たちの気付かない内に起こっていた救いの御業ですから、私たち自身にとっては身に覚えのないことです。だから、この恵みは絶えず意識して思い起こさねばなりません。この思い起こすために説教があり、聖餐がある訳です。特に身に覚えのあるということになるために、聖餐でパンと杯からワインを戴く訳です。祝福し義とするというキリストの側の救いの御業を、身に覚えがあることにするために聖餐に与ります。

そして言うまでもないことですが、聖餐は、信仰を通して与ることによって、救いの御業が身に覚えのあることになる訳です。

今日の旧約聖書のエレミヤ書は、旧い契約、石の板に記された旧い契約に対する新しい契約についてこう語ります。私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる(エレミヤ三一・三三)。胸の中に授け、心に記す。身に覚えのある身に付いた律法となる。エレミヤ書では律法ですが、私たちは救いの恵みと言っていいでしょう。

 

そして信仰によって生きる。信仰によって生きる人々(ガラテヤ三・七、九)ともありますが、こういう私たちは、これまでの言葉で言えば、キリストが私の内に生きている(ガラテヤ二・二〇)ということです。前回、教会学校における説教者の言葉をご紹介しました。「こんな私が今、説教しているなんて、それはキリストが私の内に生きているからとしか言いようがありません」。皆さんも、私の内にキリストが生きておられます、と言えますか。これを今日の箇所の言い方で言えば、私は信仰によって生きています、と表現している訳です。これなら言い易くなるでしょうか。

信仰によって生きる。けれども私たちは往々にして、はい、私は信仰によって生きています、とすっきりと言えない。こんな私なんて、罪深くて……と思ってしまう。何故だろう? それは、恐らく、信仰者たる者は完全に罪のない人間でなければならないと思っているからではないでしょうか。このことは、終末の完成時にはそうなります。それまでの歴史の歩みの中では「御心の天に成る如く地にも」と祈るように、少しでも御心のままに、信仰によって生きられればそれで十分です。ガラテヤ書の「信仰によって生きる」は未来形です。終末時には完成するけれども、地上では不完全です。「祝福が異邦人に及ぶため」というのも目標の完成を語っているわけです。歴史の中ではまだ不完全。ただ、キリストの御業においては、私たちは義とされているし、祝福されているし、救われている。その眼差しの中で見ていて下さる。キリストは私の内に生きておられ信仰によって生きているから、今この瞬間、ここで私はこのように生かされている、とこの事に思いを向けましょう。不完全な時の自分ではなくです。私は病院で患者さんを看取るとき、ご本人が信仰をお持ちでなくても、キリストは祝福の眼差しを見ておられることを信じて、御手に委ねます。相手のことをキリストに委ねることが出来る。素晴らしいことだと感謝しています。私に与えられた信仰のお蔭です。いや、そのご本人に与えられた恵みのお蔭です。

聖餐に与ります。私たちに与えられている救いの恵み、祝福を、身に覚えがあることとして心に刻みます。

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