エズラ 九・一三~一五
ガラテヤ一・四~九
先週からガラテヤ書を読見始めました。先週はガラテヤ書が「福音とは何か、何を信じるのか」を教えてくれる書物だ、と申し上げました。今日の聖句から言いますと、キリストの恵み (ガラテヤ一・六)を 教えてくれます。言い換えると、私たちが教会に連なる信仰者であるということ、教会が教会であるということを確認させてくれます。
今、教会創立一二〇周年に向けての準備を始めています。記念誌を編纂する、証集にキリストから自分に注がれた恵みを書いてみる、それらの営みの中で、私たちが教会に連なる信仰者であるということ、私たちの教会が教会であるということを確認したい。河内長野教会が、きっと色々あった中で曲がりなりにも教会としての営みを歩んできたと言えるとしたらそれは何故なのか。また何があれば私たちが教会に連なる信仰者であると言えるのか。準備しながらそれを意識しその自覚と感謝を持つことが出来るように、と願うからです。
教会に集う私たちは、お互いのことを思い合って仲がいい、と言えるでしょう。一週間毎に集まり、元気ですかと互いに声を掛け合っています。でも、それ故に私たちが信仰者であり教会が教会であるのではありません。仲が良いということなら、世の中には同好会や同窓会など、様々な仲良しグループがあるでしょう。それは教会の本質を表す言い方ではありません。もし教会の本質が仲良しで或ことにあるなら、何かのことで教会にゴタゴタが起こったり誰かと喧嘩してしまったら、教会に失望し、教会に来づらくなってしまいます。同じ趣味があるから仲良く集まりましょう、キリスト教に関心がある同好会の団体ではありません。
教団信仰告白は、教会のことを、主キリストの体であり、恵みにより召された者の集い、と告白します。
キリストの体、それは体に対する頭であるキリストと一体です。今日のパウロの言葉で言いますと、キリストの恵み、キリストの福音が明らかにされ、ここに集う信仰者はこれを信じ受けとめているということです。そしてその恵みとは、キリストは、私たちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世から私たちを救い出そうとして、御自身を私たちの罪のために献げて下さったのです(ガラテヤ一・四)。キリストが、私たちの罪を贖うために十字架にかかられたこの出来事を語っています。三節にもキリストの恵みと語り、六節にもキリストの恵みを語る。恵みを強調しています。人は、このキリストの恵みによって救われます。教会にとっては当たり前のことです。
それから、恵みにより召された者の集い。信仰告白は、私たちが教会に集うのは、自分の意志で集っているのではありません。召して下さる方、招いて下さる方がおられるからです。
ところが、キリストの恵みへ招いて下さった方から、あなた方がこんなにも早く離れて、他の福音に乗り換えようとしていることに、私はあきれ果てています。他の福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなた方を惑わし、キリストの福音を覆そうとしているに過ぎないのです(ガラテヤ一・六~七節)。ここでパウロはキリストの恵みに併せて、キリストの福音という表現を用いましたが同じ事を言っています。ガラテヤ教会では、人間的には誠実な人たちが、恐らくは自覚しないで恵みから離れてこれこが福音だと主張する事が生ました。福音はキリストの福音しかないのですが、他のこと、もう一つのことを福音として言い始めた。
その主張とは、キリストの恵み、キリストの福音で救われるには、律法も守らねばならない、という主張です。元々、律法を大事にしていたユダヤ教からキリスト教に改宗した人たちです。身に染みついている事が、キリスト教信仰の中にも現れてきたということです。この誤った主張の魅力は、救われるためにしなければならないことを自分で体験し確かめることができるということです。これだけ律法を守っている、ちゃんと立派にやっているから大丈夫だ、と。
キリストの恵みとは、こちらの立派さで勝ち取る者ではありません。手柄を立てて勝ち取るご褒美ではありません。こちらの側の善し悪しに関係なく一方的に与えられるプレゼントです。それが恵みです。
ところが恵みによって救われたのに、律法も守らないと駄目なんだ、ということになると、キリストの恵み、キリストの福音を信じる信仰ではなく、律法を守らねばならない立法主義になる。そこでは殆どの場合、一見謙虚そうに振る舞っていても、自分はこれだけやっている、出来ているという傲慢の思いがいつの間にか生じてくる。結局、恵みが恵みでなくなり、福音ではなくなる訳です。
それでパウロは続けてこう語ります。しかし、たとえ私たち自身であれ、天使であれ、私たちがあなた方に告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。私たちが前にも言っておいたように、今また、私は繰り返して言います。あなた方が受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい(ガラテヤ一・八~九)。キリスト教徒同士なのに、呪われるがよい、とは随分激しい、通常の人間関係では言ってはならない言葉です。でも、キリストの福音が律法主義になり、キリストの恵みが救う力を持たなくなる事に対して、パウロは福音の本質を見定めています。キリストの恵み、キリストの福音を守るために、この位のことはあるのだ言えるでしょう。福音を守ることと、対人間関係の在り方の優先順位を間違えてはいけません。
その上で一つのことを語ります。私は、ガラテヤ書というとある苦い経験があります。以前の教会でカルトまがいの信仰を持った人たちが、教会内に広まりかけたことがありました。それこそ呪われるべき誤った信仰です。私はガラテヤ書を用いて、贖罪の福音、正しい信仰を説教で語った。間違ってはいなかったと思う。でも、誤った信仰を責める思いが強くて、そこにはそんな信仰を抱いてしまった相手に対する愛がなかった、と思い起こします。どれ程。正しく語っても、相手の心には届かなかったでしょう。
この経験からしますと、ここでパウロは、使徒として自分は正しい、お前たちは間違っている、と一方的意に相手を責めているのではないと思います。自分の語った福音がいとも簡単に曲げられてしまったことの、キリストへの申し訳なさ、相手に対する悲しさがこみ上げていたと思います。パウロはコリント書で語っています。あらゆる教会についての心配事があります。誰かが弱っているなら私は弱らないでいられるでしょうか。誰かが躓くなら、私が心を燃やさないでいられるでしょうか(Ⅱコリント一一・二八~二九)。心燃やさないではいられない。だからこそ、逆に激しい言葉にもなったのかも知れません。
私たちが信仰者であるということは、キリストの恵みにすがるしかないということです。エズラが、律法を守らず滅ぼされるしかないユダヤ人同胞の姿を見ながらもこう祈りました。イスラエルの神、主よ、あなたは恵み深いお方です。だからこそ、私たちは今日も生き残りとしてここにいるのです。御覧下さい。このような有様で御前に立ちえないのですが、罪深い者として、御前にぬかずいております(エズラ九・一五)。パウロもまた、教会の者たちと共に、ただただ、御前にぬかずこうという信仰者の姿を明らかにしている訳です。