日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2020年4月19日 説教:森田恭一郎牧師

「主の御業、呻きの中に望み見る」

詩編七七・二~四
ローマ八・一八~二二

今日の主題は「呻き」です。呻いて良いという話です。聖書はもとより呻きを知っています。詩編記者は訴えます。神を思い続けて呻き、私の霊は悩んでなえ果てます(詩編七七・四)。注目したいのは、呻くのは神を思い続けてこそ呻くということです。神を思わなかったら、きっと諦めるだけで呻きもしなくなる、詩編記者はそう呻きを語っています。

神を思う思い方はここでは二つ。一つ目は、神に向かって私は声をあげ、助けを求めて叫びます。神に向かって私は声をあげ、神は私に耳を傾けて下さいます。 苦難の襲う時、私は主を求めます(七七・二~三)とあるように、苦しいから呻いて、いわば素直に神に向かう。苦しい時の神頼みでも良いのです。

もう一つは、夜、私の手は疲れも知らず差し出され、私の魂は慰めを受け入れません(七七・三)。神様の与えて下さる慰めを拒む仕方で呻く。創世記のヤコブは、息子ヨセフが死んだと聞かされると、他の息子たちのどんな慰めの言葉も拒みました(創世記三七・三五)。ヨセフが死んでしまったのに、そんなこと言われたってちっとも慰めにならない、と。それで、この文句を神に向かって言う。「苦難の襲う中で慰めなんかない。いつまで続くのか。あなたは本当に私を顧みておられるのか」。憤慨したり諦めたりしているかのようです。でも、言葉は神から離れているようでも、実は、魂は神を思い続けている。魂が萎えて呻く、それは無自覚であれ神を諦めていない証拠です。

 

イスラエルの民はエジプトで奴隷であった時に呻きました。イスラエルの人々は労働の故に呻き、叫んだ。一説によると、この呻きや叫びは必ずしも神に向かって発せられたものではないと言う。ただ声を発することなしには耐えられない苦しみと惨めさの中にある呻き、叫びです。それでも、労働の故に助けを求める彼らの叫び声は神に届いた(出エジプト記二・二三)。神には届いている。神が聴き届けて下さるからです。

創世記もその冒頭に、地は混沌であって、闇が深淵の面にありと記します。秩序がない混沌、光が見えてこない闇、創世記はその中での呻きを知っているということでしょう。被造物が呻いています。だから被造物を視野に入れた創造物語になる。だから創造物語に、混沌と闇、それ故の呻きを神は他人事のままにしておかれないことを記した。そして「光あれ」と命令し、光を闇から分けられ、光は光、闇は闇という秩序を被造世界にお造りになった。闇は光の中に入り込むことも闇が光に代わることも出来ない。

そして聖書の終わり、ヨハネ黙示録は、新しい天と新しい地の創造を語る。今ある混沌を秩序に変え、呻きを喜びに造りかえる。その神のご計画を語る。私はまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった(黙示録二一・一)。海は混沌の象徴です。その海がなくなった。聖書全巻はその初めから混沌を克服する創造物語を描き、その終わりを混沌の克服の新しい創造物語で締めくくる。被造物も人間も、この初めと終わりの間に生き、呻いている。でも、呻くのはこの枠組みの中での話です。

 

さてパウロも語ります。被造物は虚無に服しています。被造物が全て今日まで、共に呻き、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています(ローマ八・二〇、二二)。被造物が呻く。環境問題を考えるとよく分かります。ただ今日は少し視点をずらして、被造物の所に「人間」という言葉を入れ換えてみます。信仰者に限りません。特に感染症の故に亡くなられた方、そのご遺族、また患者や現場のスタッフの方たち…、と思って読みますと、実に多くの人たちが、虚無に服し、共に呻き産みの苦しみを味わっています。パウロも多くの人たちが呻いていることを知っている。

 

そしてどの時代も、今も、課題は、生かされる限り、呻きながらも生き抜いて行かなければならない、どうやって生き抜けるのかということです。そこでパウロはあの天地創造の枠組みを思い起こしている。現在の苦しみは、将来私たちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りない。もし今この時、混沌と闇の中で本当に呻いている方が、現在の苦しみは取るに足らない、この聖句を聞いたらどう思われるでしょうか…。「私たちの苦しみをちっとも解っていないじゃないか、よくもこんなこと言えたものだ」と文句の一つや二つ言いたくなるのではないか。思えば不思議な聖句です。

パウロはパウロなりに「現在の苦しみ」を知っている。比べることではありませんが、私たち以上の苦しみを経験しているに違いない。そのパウロが何故、取るに足らないと言えるのか。自分の力ではどうしようもならない混沌と闇です。それ程の現在の苦しみを何故生き抜いて行けるのか。

それは、パウロがいつまで続くか見通せない今の苦しみ以上の現されるはずの栄光の輝きを、信仰の目を以て見通しているからです。

 

将来、神の栄光が現されるのですね。新しい天と新しい地です。その時が来れば「栄光、神に在る!」、やはりそうだったと賛美出来るようになる。それまでの間、私たち信仰者は、神の栄光が見えない中で今、地上で呻きながら「栄光、神に在れ」と告白する。これは、信じていない人から見れば「そんなこと信じた所で、現在の苦しみは何も変わらないではないか。訳、解らない」。きっと呆れるほど不思議でしょうね。

不思議=ワンダー、でも私たちにはワンダフルです。もし人々がこのワンダフルなことに気付けば、私たちのことを羨ましく思えるのではないでしょうか。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。私たちが「栄光、神に在る!」と賛美している姿を本当に見てみたい。そうやって、私たちが神の子たちとされて現れる。これも驚くべき不思議。でも思えば、必ずそうなるとまず私たちが信じて待ち望んでいますね。

私たちが礼拝をささげる姿、これを他の未信者の人たちも被造物も、心の一番深い所で切に待ち望んでいる。それでパウロは彼らに祝福の言葉を贈る。被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれる。あなた方も同じになりますよ、と。

今、困難の中にある患者やその家族の方たち、医療スタッフの方たち、体は元気でも職場を失った方たち、みんな混沌、混乱、闇の中にある。呻いている。そのみんな全てが「栄光、神に在る」と賛美するようになる、栄光に輝く中に一緒に自由にされていく。

そう考えると、憤慨したり諦めたりすることしか出来ないのは、実は不自由ですね。ただ憤慨して呆れてソッポを向くのではなく、文句を言っていいから、神に向かって遠慮なくちゃんと呻く。

 

混沌と闇は取り除かれる。ずっと続くものではない。その神様の意思、ご計画を主イエスは明確にされました。嵐を鎮める奇跡がそれです。起き上がって、風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった(マタイ八・二六)。嵐に象徴される夜の混沌を取り除かれました。

それから主イエスご自身が呻いて下さいました。耳が聞こえず舌の回らない人を癒された時、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって「エッファタ=開け」と言われた(マルコ七・三四)のでした。この「深く息をつく」が「呻く」というのと同じ単語です。耳が聞こえないので神の言葉を聴くことが出来ない、舌が回らないので神を賛美することが出来ない。神の言葉を聴き賛美するようにと人間は造られたのに、そうでない現実とのギャップに主イエスは呻かれた。また、この人の被造物としての呻きを見抜いておられる。まだ癒しの前の段階です。でも皆さん、思い浮かべてみて下さい。目の前で主イエスが私のために天を仰いで呻いておられる光景を。私たちはその瞬間、主イエスの救いのご計画の中に生かされています。

私たちや被造物全体が、み言を聴き賛美をささげることが出来るようにと、主イエスが全てに先んじて呻いていて下さいます。この主イエスの下で、教会に集えない私たちは呻くことが出来ます。また全被造物、世界中の人たちも、本人は気付いていないとしても、主イエスの下で呻いています。

 

主イエスは、太陽が光を失った十字架での呻きから三日目、死人の内より起き上がって混沌と闇に打ち勝たれたのでした。主イエスが地上の営みに於いて諦めることなく呻くことがお出来になったのは、三日目の、そして終末に現される栄光の輝きを見通しておられたからです。

 

祈り

主よ。教会に集って礼拝をささげることの出来る有難さを日増しに覚えます。呻きつつも「栄光、神に在れ」とあなたを仰ぎ見ます。世界中の人たち、被造物までも呻いています。主よ、どうか、あなたと救いの完成に至る導きに委ねつつ呻くことが出来ますように。困難の中にある全ての人たちとその働きをあなたが支えて下さいますように。