ミカ 三・九~一二
ヨハネ一四・二五~三一
平和に関する今日の聖句、心強い主イエスのお言葉です。私は、平和をあなた方に残し、私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。怯えるな(ヨハネ一四・二七)。世が与えるような平和とは区別しておられます。
世が与えるような平和とは、軍事力や権力を以て押しつけるような平和ということでありましょう。旧約聖書には、我が民を迷わす預言者たちに対して主はこう言われる。彼らは歯で何かを噛んでいる間は平和を告げるが、その口に何も与えない人には、戦争を宣言する(ミカ三・五)。利害関係で事柄を考える預言者たちを主が批判しておられます。この民を迷わす預言者とは、今風に言うなら、権力の側に都合良く造り上げた宣伝=プロパガンダを流す権力者たちです。自分に利益をもたらす者には平和を告げるが、害をもたらす者には戦争をしかける。そして、彼らは、正義を忌み嫌い、真っ直ぐなものを曲げ、流血を以てシオンを、不正を以てエルサレムを建てる者たち(ミカ三・九~一〇)です。これが、世が与えるように与える平和の一つでありましょう。
それとは異なる、平和をあなた方に残し、私の平和を与えると主イエスは宣言して下さいます。その主イエスの平和とはどのような平和なのか?
この箇所は、主イエスがエルサレムに入城されてからの箇所です。前回申し上げましたが、主イエスはエルサレム入城を前にして都のために泣いて言われました。お前も平和への道を弁えていたなら……(ルカ一九・四一)。主イエスの願う主の平和です。この理念と現実の狭間にあって、現実を踏まえつつも現実に流されるのではなく、目指すべき方向性を以て、エルサレムに入城されたのでありました。そして捕らえられ十字架につけられる前の段階で、今日のヨハネの箇所のお言葉を語られました。
主イエスはこの後、何も悪いことをしていないのに捕らえられ十字架につけられて殺されることになります。弟子たちの前からいなくなってしまわれます。このことを見越して、主イエスは「私は去って行くが、またあなた方の所に戻ってくる」(ヨハネ一四・二八)。と言われたのでした。去る前にお話し下さった理由をこうお語りになりました。「事が起こったときにあなた方が信じるようにと、今、そのことが起こる前に話しておく」(ヨハネ一四・二九)。弟子たちはこの後、主エスが捕らえられ殺されて、この世に残されてしまう。その中で信じながら生きていけるようにと、前もって語って下さる。主イエスは十字架で亡くなられた後、三日目に甦られましたから、弟子たちが自分たちだけ残されたのは三日間でありました。けれども、ヨハネ福音書が重ね合わせていますのは、主イエスが天に挙げられた後、残された教会が、主の不在の中でこの世を歩んでいかなければならない現実、これと重ね合わせています。見える仕方で主が共にいて下さらない、その主の不在。
今日、午後、葬儀を執り行います。私たちの教会にとりましては、長い間、お世話になり、ご指導戴き、頼りにしてきたお方です。それだけに、天寿を全うされたと言えるお年であっても心にポカッと穴が空くような思いを皆さんお持ちの事と思います。この方のみならず、葬儀の度に私たちは経験します。もっといてくれたら良かったのに。今の状況でこの方が生きておられたら、どうお考えになるだろう。もっとお話を伺っておけば良かった、と遺されて思いは募ります。信仰の先輩としてどうお考えになるだろうか、と。
それは、主イエスの不在が、今日の私たちにとっても同じだからです。何か課題にぶつかった時、こう考え、こうしたらいいんですよ、と主イエスが直接、お声をかけて下されば一番助かるわけです。でもそうではない。
だから、聖書に遺された主イエスのお言葉を思い起こすことが支えになります。主イエスは弟子たちにお語りになりました。私はあなた方といた時に、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなた方に全てのことを教え、私が話したことを悉く思い起こさせて下さる(ヨハネ一四・二五~二六)。教会に集い、聖書の言葉を聞き、主イエスのお心を尋ね求め、御心をそうだ、と受けとめる。それが聖霊の導きなのだ。私たちの信仰のために、私たちを弁護して下さる聖霊の導きです。そして、私は平和をあなた方に残し、私の平和を与える、と約束下さいました。それは、主が共にいて下さることによって与えられる支えです。私たちの思いを越えて導かれる出来事です。
聖餐は、理屈を越えて、主が制定された救いの手段です。一見、主がご不在であられる中で、いやいや確かに主はおられることを私たちの心に確かにして下さる出来事です。