日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2017年10月8日 説教:森田恭一郎牧師

「万人祭司の祈り」

イザヤ書56章6~7節
テサロニケの信徒への手紙一5章25節
今日と次回は、宗教改革のいわゆる三大原則「聖書のみ、信仰のみ、万人祭司」の内「万人祭司」を巡って説教します。万人祭司、最近は「全信徒祭司性」と言います。宗教改革時代のヨーロッパでは全員、小児洗礼を受けて教会の信徒でしたから「万人」と言えたのでしょうが、今日の状況では全員ではありませんから、「全信徒=信徒の全員が祭司性を持つ」という意味で「全信徒祭司性」と言います。
元々旧約時代の祭司というのは神殿で仕える祭司でありました。神の前に罪人を執り成す役割を担います。祭司は、あるいは祭司だけが、人々に代わって神の前に出て、人々の罪を動物に背負わせて、その動物を犠牲として献げる祭儀を執り行いました。そして執り成しをして、罪の赦し、神との和解を祈りました。そして祭司の中でも大祭司だけが神殿の一番奥の至聖所に入って、この祭儀を執り行いました。この大祭司を通してのみ人々は神に近づくことが出来ました。
新約時代になり、教会は、この祭儀の務めをイエス・キリストが執り行って下さった、と理解します。即ち、キリスト御自身が私たち人類の罪を背負って、私たちの代わりに十字架で罰を受けて下さった。このことによって私たちの罪は赦され、和解が成り立った。その祭司の、いや真の大祭司の役割をキリストが果たして下さった、そう教会は理解します。
新約聖書の中でキリストが大祭司であるということを最も明確に示しているのがヘブライ人への手紙です。今日、招きの言葉で読みましたヘブライ人への手紙7章24節以下「しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがお出来になります。このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、諸々の天より高くされている大祭司こそ、私たちにとって必要な方なのです」。

祈りを奉げるのは、人が神に祈りを奉げます。神殿では祭司が執り成しの祈りを奉げます。でも神の御子であられるキリストが大祭司の務めを担われたことで、キリストが私たちのために神に執り成して下さった訳です。御自身をささげるという意味では執り成しの業でありますし、そこには当然、執り成しの祈りもありました。
私たちは思い起こします。主イエスの執り成しの祈りを、です。
十字架上で、御自分を十字架にかけた人たちのことを「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」。
あるいはこれからまさに裏切ろうとしていたペトロに「シモン、シモン、サタンはあなた方を小麦のように篩にかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、私はあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。そのような特別な時だけではありません。「朝早くまだ暗い内に、イエスは起きて、人里離れた所に出て行き、そこで祈っておられた」。毎日祈っておられたのです。
そして先程のヘブライ書の言葉で言うならば「この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので」、今日もまた私たちのために祈って下さっておられるのであります。私たちは日々、祈って戴いている訳です。キリストが私たち一人ひとりのために祈ってくださる、何と幸いなことでしょう。
そして、この主イエスの祈りを受けて、今度は私たちも祈ります。神殿で祭司が祈ったように、教会の司祭や牧師が祈ります。でも司祭や牧師だけが祈るのではありません。信徒みんなが祈って良い。私たちがキリストからの恵みと祈りを受けているのですから、今度は私たちがお互い同士、そして世界の人々を覚えて、祭司の執り成しをするのです。あの人、この人のために祈ることが出来る、これもまた、人間として何と幸いなことでしょう。
宗教改革時代のローマ・カトリック教会では、ローマ教皇はじめ司祭は聖職者であって、信徒とは身分が異なっておりました。司祭がいないと神に近づけないとされたのですけれども、キリストが大祭司の役割を全うされたので旧約時代の祭司制度はもう要らなくなりました。なのに、いつの間にか、司祭だけが執り成しをするようになってしまっていました。そこで、宗教改革者は「皆が祭司なのだ」と全信徒祭司性を語ったのです。プロテスタント教会では、牧師と信徒の間に身分や階級の差はありません。牧師も信徒です。教職ですが聖職者ではありません。そして教職者は、信徒と何が異なるかというと、職務が異なるだけです。牧師がいないと人々は神に近づけないという事ではありません。キリストがおられるのですから大丈夫です。
宗教改革に関するある書物は大胆にもこう言います。「キリスト者なら誰でも罪を赦し、福音を宣べ伝えることが出来る。そして誰でもキリスト者なら、原則としてサクラメントを執行できる。ただ秩序を守るために牧師が存在するのである。牧師は全てのキリスト者たちが持っている課題を特別な仕方で行う。そのために正規の資格を得、公に召されていることに基づいて権能を行使する。牧師は教会から福音の説教とサクラメント執行の適切性と継続性を確実に守るべき務めが委ねられる。牧師は聖職者に相応しい特別の資質を所有していないが、それでも確かに特別な召命を持っている。福音を語り続けることは全てのキリスト者の使命であり続ける」。
牧師も信徒であって、聖職者に相応しい特別の資質を所有している訳ではない。全信徒が祭司です。キリスト者なら福音を宣べ伝えて良いし、執り成しの祈りを奉げて良い訳です。

テサロニケ書でパウロは、「兄弟たち、私たちのために祈って下さい」と記します。パウロがテサロニケの信徒のために祈るだけではない。信徒が使徒パウロのために祈って良い。パウロは使徒としての召命と務めを与えられた者としての自覚はありましたが、信徒と身分の異なる聖職者として相応しい者という意識はなかった。むしろ罪人の頭という思いであった。牧師も皆さんのために祈ります。皆さんも教職のために祈って下さい。牧師も祈りを必要としている。
イザヤ書は、神殿を祈りの家と表現しました。主イエスも同じことを仰いました。教会は祈りの家であります。
最後に今日は、神学校日です。主イエスはマタイ福音書9章の最後の所でこう言われました。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送って下さるように、収穫の主に願いなさい」。無牧の時に皆さんも祈られたでしょう。教会だけではありません。神学校も又、祈りを必要としています。そして祈りは、主イエスが御心に適うように聞き入れて下さいます。