日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2019年11月10日 説教:森田恭一郎牧師

「万人を み手を差し伸べ引き寄せよう」

イザヤ五四・ 七―一〇
ヨハネ一二・二七―三三

本日は、召天者を記念して皆様と共に礼拝をささげられますことを、教会として嬉しく思います。天に召された方たちを覚えつつ、私たち全ての者をご自分の元へと引き寄せて下さいます主イエス・キリストの神を記念したいと思います。

 

主イエスは十字架にかけられる直前にこう仰いました。「今、私は心騒ぐ」。主イエスが心騒ぐ経験をしておられる。言うまでもないことですが、それはウキウキする高揚感溢れる「心騒ぐ」ではありません。「何と言おうか。『父よ、私をこの時から救って下さい』と言おうか」と言い様のない、心の置き所のないような、心の動揺する「心騒ぐ」でありました。

それは、ご自分の死を予感して、人間なら誰もが思う死への不安でもありました。それだけではない。キリストならではの不安、つまり、十字架を前にして、自分が十字架にかかることが本当に人間の罪を贖い、人々を救うことに役立つのか、それとも、何も悪いことをしていないのに妬みの故に殺されるだけの不条理の、いわばただの犬死でしかないのか…。このことを巡る心の騒ぎと言えるでしょう。いや、更にそれだけではない。犬死に過ぎないと思えることへの心の騒ぎについては乗り越えていたでしょう。人の救いに役立つのです。主イエスはこの事については心定まっておられたと言えるでしょう。それでも十字架の死は、心騒ぐものでした。

それは、主イエスの十字架の死が持つ特別の意味の故です。十字架での叫びを思い起こすなら「我が神、我が神、何故、私をお見捨てになったのですか」。この父なる神に見捨てられる罪の裁きとしての死、この死に対する胸騒ぎ、心の騒ぎでありました。イザヤ書の聖句で言えば、わずかの間、私はあなたを捨てた(イザヤ五四・七)。ただ死ぬのではない。父なる神に見捨てられるという死、それが罪の裁きとしての死であります。このことを思うと主イエスと雖も心が騒ぐ…。けれども、イザヤ書がわずかの間捨てたに続けて語りますように、深い憐れみをもって私はあなたを引き寄せる。そして三日目に死人の内より主イエスは甦らされました。

主イエスが私たちの代わりに罪の裁きとしての死を担って下さったからこそ、私たち、今の人間の側からすれば、もう私たちが裁かれることはないことが確かになりました。ですから私たちは心確かです。それで本日の招詞の御言葉、主イエスは私たちに仰いました。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして私をも信じなさい。私の父の家には住む所が沢山ある」(ヨハネ一四・一)。このように天の国の住まいを約束下さいました。

 

主イエスがこう宣言なさるとき、主イエスは既に、ご自分の心騒ぐ所を乗り越えられておられました。だからこそ私たちに「心を騒がせるな」と言える訳です。それならば「心騒ぐ」から「心を騒がせるな」へ、主イエスはどのように乗り越えられたのか? 主イエスは「心騒ぐ」の次にこう仰いました。「しかし、私は正にこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現して下さい」(一二・二七)。こういう仕方、ご自分の使命を確認する仕方で、「心騒ぐ」から「心騒がせるな」へ乗り越えられました。十字架にかかることが父なる神の栄光を現わすことになる。「栄光、神に在れ」、そう確信して主イエスは乗り越えられました。

 

私たちは、主イエスの「私の父の家には住む所が沢山ある」との宣言を確認出来る安心の中にいます。そして私たちも、自分の生きることがキリストの栄光を現すことになると願っている訳です。自分の営みがキリストの香りを漂わせ、周囲の人たちにキリストの恵みに連なる幸いに気付いて戴く。少なくとも私たち自身がそう思いながら生きることが出来るように「栄光、神に在れ」と自分は生きて行きたい。また召天者の方々についても、天の住まいと共に、神の栄光の下に生きて来られたし、今も神の栄光の下にあると確認するべく、今日、私たちはここに集っている訳です。

 

さて、今日は、もう一箇所、聖書の言葉を味わいたいと思います。「私は地上から上げられるとき、全ての人を自分のもとへ引き寄せよう」(ヨハネ一二・三二)。ここで主イエスがまず「地上から上げられる」と語りますのは、二つ意味を込めています。一つは十字架の上に上げられる。そしてもう一つは、地上から天上へと上げられる。

「上がる」のではなく「上げられ」ます。主イエスと雖も、好き好んで自ら十字架に上がる=十字架につくのではありません。人々の妬みの故に十字架に付けられ上げられます。また、主イエスは天国へも、人としては上げられる訳です。仮に人が自ら命を絶つということは出来たとしても、自らの力で、己を天へと上げることは出来ません。人を天上へと上げて下さるのは神様の為さる御業です。人間に出来ないから残念というより、神様が上げて下さるのですから確かです。

よく、こう言われます。複数のどの登山道からでも行き着く頂上は同じ、どの宗教でも辿り着く所は同じだと。私の思いは、山頂から天上に行くのはイエス・キリストの道、一つしかない。私たちはキリストに上げて戴くしかありません。それ故、主イエスが「私は道である」(ヨハネ一四・六)と仰って下さったからこそ、その道は確かです。

 

新約聖書ペトロ書にこういう聖句があります。神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めて戴けます(Ⅰペトロ五・六)。かの時には高めて上げて下さる。また、自分を低くということが上げられることの対比で言われていますが、自分の力で低く、道徳心を以て謙虚になるというのではありません。低くなるのも、神の力強い御手の下でということです。これを言い換えて、思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神があなた方のことを心にかけて下さるからです。重荷をお任せするということです。旧約聖書の詩編にこうあります。あなたの重荷を主に委ねよ(=お任せしなさい)。とこしえに動揺しないように(=心騒ぐことのないように)計らって下さる(五五・二三)。

お任せする、お委ねする。信仰者にとって大事な姿勢なのですが、これが意外と難しい。例えて言いますと、私は水泳が出来ない。泳げない。高校時代に学校の水泳の授業で、一生懸命練習するのですが一向に出来ない。先生から何て言われるかと言うと「力抜け!」。それが出来ない。言われる程、よし力抜こうと思って益々力んでしまい沈みます。力を抜くだけでいい、でもそれが出来ない。抜けば浮くはずなんです…よね。

 

人が地上の人生の終わりの時を迎える。これも力抜けばいい。私事ですが、私の母の亡くなるしばらく前のこと、いつしか食が細くなり、ある日ご飯を前にしても「要らない」と言って手を付けなくなりました。周りの家族の私たちは心配して「食べないと死んじゃうよ」と無理にでも食べさせようとするのですが、母は口を開こうとしません。そのとき看護師から言われたことは、食べないと死んでしまうのではなく、体は亡くなる準備を始めたから食べないということでした。食べるのは地上の肉の体を維持するため。無理に食べさせると体は却って辛くなるということでした。胃ろうも同じです。自然の体は、ちゃんと力を抜くことを知っている。天国に行けるように身を軽くしている。老衰とはそういうことか。霊の体には「私が命のパンである」(ヨハネ六・三五)と言われた食物がある。何もかも神にお任せしなさい。神があなた方のことを心にかけて下さるからです。

 

もう一つ味わいたい言葉は「私は地上から上げられるとき、全ての人を自分のもとへ引き寄せよう」。主イエスが引き寄せて下さいます。魚を捕る漁師が網を引き寄せるように、親鳥が雛たちを翼の下に、羽の中に集めるように、主イエスが御手を以て引き寄せ、わずかの間捨てた私たちを憐れみを以て引き寄せて下さいます。ご自分のもとへ、しかも全ての人をです。どのような死に方、生き方をしたとしても、見捨てるのではなく他ならぬ主イエスの所に、全ての人を引き寄せます。その時、神様の平和の契約(イザヤ五四・一〇)が成就している。真の神であられる主イエスが私たちの神であられ、憐れみ深い神であられることが引き寄せられた全ての人に分かる様になります。

 

思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神があなた方の事を心にかけて下さるからです。あなたの重荷を主に委ねよ。とこしえに動揺しないように計らって下さる。私たちは誰であれ、死を前にした時、心騒ぐものであります。あなたに委ねる者として下さい。今、地上にある私たちも、既に亡くなられた方々も、全ての者を、主イエス・キリストが憐れみを以てご自分のもとへと引き寄せて下さるのですから、安心して心安んじて、お委ね致します。今日、主イエスの下に集まりました私たち一人一人の思いを、既にあなたが聞き上げて下さっておられることを信じて感謝します。