日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2020年5月17日 説教:森田恭一郎牧師

「万事を益に為し給う」

創世記五〇・二〇
ローマ 八・二八~三〇

万事が益となるように共に働く。希望に溢れた言葉です。よく知られたこの聖句を改めて味わいたいと思います。

放っておけば自然に万事が益になっていくのでしょうか。春夏秋冬の自然世界は放っておいても美しい環境になって行くに違いありません。感染症だって、自然界の営みとしては収まる所に収まって行きます。

他方、人間の世界、歴史は、放ったままでは自然に良くなることはありません。感染症が今、問題になっているのは、それが社会問題、社会として克服していかねばならない問題だからです。放っておくと社会が崩壊する。

思えば、人間は放っておけば、罪を犯すアダムのように、また人を殺すカインのようになっていく。だから人間はこれを自覚して罪の力に抗して、日常的に社会を形成していかねばなりません。

 

「万事」で思い出したのですが、諺に「人間万事塞翁が馬」があります。人生、幸せがいつ不幸の原因になるか分からず、災いがいつ幸せの原因になるか分からない。災いも悲しむに及ばず、幸せも喜ぶには当たらず、個々の事で一喜一憂するなという人生訓の言葉でしょうか。しかしこの人生訓には形成していく方向性や姿勢は見出されません。

万事が益となるように共に働く。万事が益になるように働くのは、誰か。創世記のヨセフ物語の最後の所でこう語ります。「あなた方は私に悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにして下さったのです」。主語は神です。万事、たとえそれが、人間がたくらんだ悪であっても、それと共に働いて益としていくのは神です。

人間のささやかな日常生活の中にも、あるいはこの度の感染症に伴うような大きな社会問題の中にも、神が働いてそれを善に変えて下さる。ここには塞翁が馬の諺とは異なり、悪を善に変える、万事が益となるように、という明確な方向性があります。

 

今日のローマ書から、改めて神様の大きなご計画があることが分かります。神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たち。ご計画がある訳です。召された者たちのことを、神は前もって知っておられた者たちと言い、更に彼らを御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められましたと言う。ご計画は、前もって、あらかじめ定められたものです。それはいつかというと、エフェソ書の言い方を借りるなら天地創造の前(一・四)、ご計画が全て実現するのは、終末の完成の時です。この天地創造の前から終末の時に至るまでの歴史の時間、その方向性が神の側にはある。悪を善に向け、益になるように働かれるという方向です。大きな希望です。

 

二八節に私たちは知っていますとあります。神様は、自然の流れに放っておくことは為さらない。私たち信仰者は知っています。神は天地万物そして時間を創造し、万物の救いが成就していく方向性を以て歴史に関わられます。放っておいたらアダムの末裔である人類は、滅びの死に向かうのみだからです。そこに神が関わり、旧約の歴史を促し、時が満ちるに及んで御子をこの世に送り、人類の罪を担わせ人類の死を負って下さった。

甦られて、死が命に変えられる。およそこれは放っておいて自然に実現することではありません。神は私たち全てのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された(ローマ八・三二)。神は、その独り子をお与えになった程に世を愛された(ヨハネ三・一六)のです。私たちは御父がどれ程私たちを愛して下さるか考えねばなりません(Ⅰヨハネ三・一)。人類、万物の救いは、自然に成るものではなく、神様の明確な救済の意思と御業に拠るのです。

 

万事が益となるように共に働く。歴史を形成していくのは神様だけではありません。共に、という協働性があります。救われるための協働ではありません。この地上の歴史を形成し、生きていく上での協働性です。神を愛する者たちとパウロが言います。神に愛される者たちと言わない所が珍しい。コリント書にあと二か所あるだけで、神と共に働く自覚を持った主体的な関わりの姿勢を感じます。

「災い転じて福と為す」とか「ピンチはチャンス」とか「失敗は成功の元」などとよく言います。今回の感染症問題も、この災いを福にしていく、チャンスにしていきたいものです。

教会では今、礼拝の音声と映像配信の試みを始めました。今回の災いなしには着手出来なかった…。これ一つとっても、万事が益となるように「共に働け、しっかりやれ」と神が、教会に共に働いて、事を動かしておられると思います。聖なる者たちのために執り成して(八・二七)おられる訳で、有り難いことです。

 

先日来、緊急事態宣言は一部解除されましたが、ウィルスと共にある生活を念頭に、「新しい日常を作り出す」ことが求められる段階になりました。社会は今、大きく変動しています。感染症第二波が来てもそれに耐えられる社会にしていかねばなりません。医療体制をより整えた社会へ。私たちの日常生活でもマスクや消毒液も日頃から常備し、手洗いやうがいの習慣を身に付ける。テレワークやオンライン授業が普及したりして社会の在り方なども、元に戻ることなく変わって行くことでしょう。

生活の仕方だけではありません。社会の倫理性が形に現れてきました。患者や医療関係者のみならず、経済的に窮地に陥った人たちを支援・応援しようとする気持ちを市民が持つようになり、その絆が広がっていく。助け合う人間愛と言っても良い。それが社会の良識、共通理念になる。その理念自体は以前から私たち市民の頭の中にはあるものですが、歴史的状況や災いを契機に、社会の中に具体化し、身について行きます。

もっとも逆もある。医療従事者の家族への差別や、自粛要請の下で家庭内暴力が増えたり、県外ナンバーへのいたずらとか、それも単なるいたずらを超えて、まるで江戸時代の五人組のように、昨今言われるようになった自粛警察に市民がなって監視し合ったり差別意識を持ったりする。これが市民の良識になるとは思えませんが、私たちにはお互いが益となるようにと働く市民感覚、一人ひとりの人格を大切にする倫理観が必要です。

 

感染症の課題に世界が取り組んでいます。世界が一緒に取り組まないと解決しない困難な状況の中で、協力、応援支援しあって解決を目指して、決して簡単ではありませんが、世界がより具体的に一つになって行く。

思えば、今、経験しているこのことが、実は気が付かない内に神が共に働いておられるのではないでしょうか。分断ではなく世界が一つになるようにと、神が歴史を導く。いや、実は以前から導いてこられました。今も、これからもです。感染症を神がもたらしたとは思いませんが、その時代その時代の社会の課題を用いて、神は一つなる世界へと導いておられる。もちろん人間の歴史社会ですから、一直線で御心のままに進んでいく訳ではない。神は人間の罪をも抱えながら、神ご自身が呻きつつ歴史を導かれる。百年前より、十年前より、今の方が一つになっていますね。

これを自覚して神と共に働くのは、私たち神を愛する者です。が、神が共に働いて下さるのは、神が愛する世界中の全ての人たちです。そして最後には世界中の人が、神が愛して下さることを知り、神を愛する一つの民になって行く。歴史の方向はそこへと向かう。今に至る歴史は、世界も人類も一つとなって行く過程にあったと知ると、希望と共に、何か楽しみです。

パウロは「益」をどのような意味で語ったのか? それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。私たちが御子をほめたたえる礼拝者とされ御名があがめられるという「益」です。自分にとって都合のいい益ではなくご計画成るように神様にとって益となることです。歴史の完成に向けての益です。

 

祈り いかに幸いなことか、主を神とする国、主が嗣業として選ばれた民は。大きな社会変動の呻きの中で神様が全世界の人々と共に働いて下さることを感謝します。社会をあなたの「益」へと導き、あなたの益がなるように神を愛する私たちを用いて働いて下さい。