箴言 一〇・二二
ヨハネ黙示録二・八―一一
年に三回程度、そして終末主日にはヨハネ黙示録を味わっています。今日は二章八節以下です。
ヨハネは霊に満たされ御声を聞きます。スミルナにある教会の天使にこう書き送れ。語る主体は最初の者にして、最後の者である方、これは本来、主なる神ご自身を表す言葉です。一章八節に神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「私はアルファであり、オメガである」。ここで神である主を表すアルファは最初の者、オメガは最後の者のことですから、最初の者にして最後の者である方(二・八)とは主なる神様のことです。それをそのまま続けて一度死んだが、また生きた方と言い換えています。これは言うまでもなく十字架にかかり甦られた主イエスです。主なる神と主イエスは同一、同質であられると宣言している訳です。
思えば、ある時主イエスは弟子たちにお問いになりました。「それでは、あなた方は私を何者だと言うか」(マルコ八・二九)。神の御子、キリストですと応える。これが私たちの信仰の中心点です。今日はこのことを今一度確認したいと思います。
ヨハネ黙示録は二~三章で、七つの教会への手紙を書き記します。その七つの諸教会は夫々特色があります。今日のスミルナ教会の特色は、「私は、あなたの苦難や貧しさを知っている。だが、本当はあなたは豊かなのだ」(二・九)という特色です。小アジアはローマ時代の当時、諸教会にとって異教社会でした。迫害もあります。ここにある苦難はまずはこの迫害のこと。また貧しいとありますから、その生活の労苦もあったでしょう。主イエスがその辛い苦難や貧しさを私は知っていると言って下さる。それだけで慰めを感じる程、有難いことですね。
主イエスが神の眼を以て知っておられることがまだあります。だが、本当はあなたは豊かなのだ。経済的・物質的な豊かさではないでしょう。旧約聖書には豊かさをこう表現している所があります。人間を豊かにするのは主の祝福である(箴言一〇・二二)。主の祝福の豊かさです。今日の黙示録はその豊かさの内容を命の冠(二・一〇)と語ります。私たちも人生に様々な苦難や困難がある。戦後は迫害こそありませんが、日本という異教社会でキリスト教徒として歩む労苦は、私たちが多かれ少なかれ経験することです。でもあなたは豊かなのだと主が語り、命の冠を授けようと約束下さる。
先ほど、夫々の教会には特色があると申し上げましたが、ラオディキアの教会(三・一四)はスミルナ教会と反対です。あなたは『私は金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない(三・一七節~)。ラオディキアの教会は、経済的・物質的には裕福かもしれない。けれども主の眼はお見通しです。信仰的には貧しい。それでは祝福を受けられないですよ。そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金を私から買うがよいと語ります。
同じ小アジアにある教会ですが、教会ごとに、(場合によっては正反対の)特色があり、状況も異なっている訳です。そして教会ごとにその賜物と課題がある訳です。私は知っていると主がお語りになる時、賜物と課題の両方を知っておられます。
河内長野教会も、賜物と課題があっても不思議ではありません。賜物を見回してみると、河内長野という土地で、毎週これだけの皆さん方が集い礼拝を捧げている。集って来られるからこそ教会は生きている。また、地域の方々が、当教会の歴史を通して、また清教学園や保育園を通して、河内長野教会に信頼を寄せて下さる。これらは、決して当たり前ではない大きな賜物です。自覚して感謝を以て受け止めたい。
同時に課題もあります。昨年来、宣教基本方針と年度ごとの活動方針を掲げています。活動方針は言ってみれば、その年度に取り組むべき教会の課題を明らかにしている訳です(「二〇一九年度活動方針朗読」)。今日、壮年会と婦人会の例会にて発題があります。今日の発題は、活動方針の一つ「教会の新しい奉仕の形を具現化する検討と準備を始める」ことに対応した内容になるのではないでしょうか。壮年会例会では「地域の中で教会の果たす役割」と題して、婦人会例会では「私の見たグループホームと有料老人ホーム」と題して発題があります。当教会の課題が賜物を生かす形で克服され、更に展開していくことを望みます。
さて黙示録に戻ります。小アジアの七つの教会宛ての手紙ですが、小アジアに七つしか教会がなかった訳ではありません。例えば、コロサイ教会も皆さんご存知の名前です。だから八つの教会でも良いはずですが、七は完全数と言われ諸教会の代表として七教会が挙げられています。
スミルナ教会は、ラオディキア教会のような批判される課題は指摘されていませんが、教会を取り囲む苦難については語っています。自分はユダヤ人であると言う者どもが、あなたを非難していることを、私は知っている。実は、彼らはユダヤ人ではなく、サタンの集いに属している者どもである。黙示録を記したヨハネも恐らくユダヤ人、そしてユダヤ教の会堂の伝統の中で育ち、旧約来の意義を知っている人です。ですからユダヤ人や会堂そのものを非難している訳ではありません。けれども彼らが、ユダヤ人と会堂の本質を見失い、実質サタンの集いになってしまっていた。イエスを神様として礼拝するのは、お一人の神を信じるユダヤ教の神理解からみればおかしい、と批難してくる。キリスト教会は、誤解に基づく非難にさらされ、ユダヤ教徒たちからも、そして別の形でローマ社会の人たちからも理解されなかった。
そのような中でヨハネは主の言葉を聞きます。あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。見よ、悪魔が試みるために、あなた方の何人かを牢に投げ込もうとしている。あなた方は、十日の間苦しめられるであろう。本当に十日間、投獄されるのか? そういうことが最近あったという経験則を踏まえているのかもしれません。あるいは、十日で終わる短い苦しみだという理解もあります。いずれにしても、苦難がある、これが教会を取り囲んでいる状況でした。
そして死に至るまで忠実であれ。文字通り殉教するに至るまでということもあるでしょう。また、死に至るまで生涯、信仰に忠実であれとも読めます。忠実というのは、イエスは神ご自身であるというあの信仰の中心点を捨てないで信仰を全うし、信仰が日々の生きる生活の姿となって現れてくることを含んで、忠実と語っています。その信仰と生活を貫く。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。終末の豊かな姿を描いています。
更に、耳ある者は 霊 が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者は…。この「聞くがよい。勝利を得る」は七つの教会への手紙全てに共通しています。夫々の個性もありますが、教会としての共通点もあるということです。しっかりと聞き、そこに生きれば勝利を得るのだと言っている。全教会の共通項なら、私たちの教会にも当てはまる。聞くがよい。だから毎週、聞き続けます。聞き続けることによって、信仰の中心点を自分の中に形作って行きます。
スミルナの教会が聞くべきこととして語られたことの帰結は「勝利を得る者は、決して第二の死から害を受けることはない」という希望です。
第一の死がこの世での身体的な死であることはすぐ分かります。第二の死とは何か? 信仰の有無に関係なく時に言われることは、葬儀の後、故人の事を覚えている限り、その故人は遺された者の心の内に生きている。でもその覚えている人たちがいなくなったら、故人は二度目の死を迎えると。そう考えると、黙示録の語る第二の死は、神様から忘れ去られ、見捨てられることです。
私たちはこの第二の死を迎えることになるのか。キリストの「我が神、我が神、何故私をお見捨てになったのですか」という十字架上の叫びの言葉、第二の死を、私の分を私の代わりに負って下さったので私たちは見捨てられることはない。そう信じるなら安心です。主イエスの一度死んだがという死は、第一の死と第二の死を同時に担っている死だと言えるでしょう。その方が甦ってこられて今生きておられます。罪を贖い復活されたこのお方が、私たちを見捨てたり忘れたりすることはありませんから、私たちに第二の死はありません。このお方が、私たち救い主であり、神ご自身です。
この告白が私たちの中心点です。そして、中心点があるということは、ここから水面に広がる波紋のように、キリスト教徒の働きと、教会の活動が広がります。当教会の新しい奉仕の形も、この中心点あっての、ここからの広がりであるはずです。もし中心点を欠いたまま活動しても、それはヒューマニズムか自己満足の活動です。中心点の在る私たちの生き方、教会の活動であるなら、それは終末の希望に包まれている営みになります。