日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2021年2月28日 説教:森田恭一郎牧師

「パラダイスへの招待状」

ルカ二三・三二-四三

私たちは今、キリスト・イエスの十字架の御苦難を覚える受難節の日々を歩んでいます。イエス様が磔刑に処せられた際に十字架上で語ったとされる「十字架の七つの言葉」のはじめの二つが今朝の礼拝の朗読箇所に含まれています。磔刑時の激痛は想像を絶するものだと云われます。両手と両足を柱に釘打たれ自分の全体重をそこで支えてやっとのことで呼吸ができるほどです。その状態でイエス様はずっと黙っておられましたが、ただ七つの言葉を発せられました。

イエス様と共に並んで死刑に処せられていた二人の犯罪人がいました。その日、3本の十字架がゴルゴダの丘に立てられました。イエス様を真ん中に一人は右に一人は左に十字架に架けられました。この二人のことはマタイによる福音書でもマルコによる福音書でも同じように言及されています。通りがかりの人々がイエス様をののしって言いました。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」。祭司長や律法学者たちもイエス様を侮辱して言いました。「他人は救ったのに、自分は救えない。神の子だと言うなら今すぐ十字架から降りてみろ。それなら信じてやる。どうして神はお前を救わないのか」。そして、一緒に十字架につけられていた二人の強盗も同じようにイエスをののしっていた、と。マタイもマルコも同じようにこのことを記しています。

ところが、ルカによる福音書だけはこの事件の伝え方が少し異なっています。より詳しく深く見ていると言いますか、このとき二人の強盗に起きた微妙な変化を見逃さずに報告してくれています。そして、そこにこそとても大事なメッセージがある、福音のエッセンスのようなものが込められていると私は考えます。

それはどういうことかと申しますと、おそらく二人の犯罪人ははじめのうちイエス様をののしっていたのだと思います。一人がイエス様にこう言いました、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」。ところが、もう一人の方は、イエス様が十字架上で発せられた言葉を聞いて気がついたのです。『その時、イエスは言われた。「父よ、彼らをおゆるしください。かれらは何をしているのか、わからずにいるのです」』(34節)。

イエス様が十字架上で最初に語ったこの言葉によって一人の犯罪人は変えられました。被害者は自分の正しさを語り、犯罪人は呪いの言葉をばら撒き、悲観者はこの世を批判し愚痴を語ります。主が十字架の上で語ったのは、愛と光の言葉でした。愛と光とは、すなわち「相手の立場になって考え行動する」ということです。自分をののしっている人々のことを、「メシアをののしったことで神から永遠の罰と責め苦を受けてはかわいそうだ。この人たちは何もわかっていないのだから」と主は哀れみました。それを聞いて犯罪人の一人は衝撃を受けたのですね。「あんたはなんて人だ。この期に及んでまだ相手の立場で物事を考えているのか!いったいどういうことだ、なんて人なんだ!」一瞬にしてこの人はすべてを理解しました。自分がこれまでどれほど人を恨み妬み他人のせいにして好き勝手生きてきたかに気がつきました。そして、彼はもう一人はをたしなめて言いました。『「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」』(40~41節)。「イエスさんよ、こんな奴らアンタのことなんか何もわかっちゃいませんぜ。でもあっしはたった今わかりました。この世でたったひとりアンタのことを理解した男がいたってことを、天国へ行かれるときに思い出してくれませんかねえ!」彼がそう言うと主は、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒にパラダイスにいるんだよ」と言ってくださった。

二つの要点のみ申します。第一は、人は誰でも神様の恵みから等しい距離にいるということです。この犯罪人がイエス様を信じて天国に行った最初の人だという事実は重要です。パラダイスに招かれることは一方的に神様の恵みによることであって、私たちはその前に何ら誇ることなど持っていないということです。この世で神様により近くて恵まれている人、神様から遠く離れて恵みから外れている人はいません。たとえどんな豊かな社会に出て生まれても、どんなに貧しい家庭に生まれても、親からどんな扱いを受けようが人は神様の祝福から等距離に置かれています。私たちは皆、創造主の意志によって生を受け望まれて誕生し愛されて生かされているのです。どんな境遇の中に置かれようが、この真理に気づいた人は周りを豊かにする愛と光で生きることができます。

第二に、神様に愛されていることに気づいたこの犯罪人はどんなにか人生をやり直すことを望んだことでしょう。もし、もう一度やり直すチャンスが与えられたら、これまでのような自分勝手な生き方で周囲も自分も傷つけるような人生でなく、感謝を忘れずに笑顔で人に優しく、クリスチャン・ライフを楽しみたいな。けれども、それはもうできません。彼は釘付けにされているのです。もう終わりです。しかし、彼にも希望があります。パラダイスに行くのですから。「主を信じる者は決して失望に終わることがない」とパウロが言うとおりです。

私たちはどうでしょう。私たちの手や足には釘はあるでしょうか?

今日、私たちがいるその場所で、私たちの笑顔は人に喜びを与え、わたしたちの言葉が人を癒し励まします。私たちは神様の道具です。人々を闇から光へと導く事が出来る道具なのです

(2021.02.28のお説教は井上良作先生のものになります。)