詩編 一一〇・一
使徒言行録一・六~一一
本日の使徒信条は、先週の復活に続いて「天に昇り、全能の父なる神の右に坐し給えり」です。 クリスマスにこの世に降って来られた御子キリストは、甦られた後、天に昇られ、今は全能の父なる神の右に坐しておられます。そしていずれ再び来たり給う。天に昇られる時、主イエスは、祝福しながら彼ら(弟子たち)を離れ、天に上げられ(ルカ二四・五一)ました。福音書の最後の所でルカが記す、地上の御生涯で主イエスが最後になさったことは、弟子たちを祝福することでした。欠けばかりの弟子たち、十字架の前には皆、主イエスを見捨てて逃げ去り、ペトロも三度知らないと主イエスを否み、主イエスの復活後には、婦人たちの報告を戯言のように思って婦人たちを信じない、ペトロも空の墓やご遺体を包んでいた亜麻布を目にしながら信じることが出来ない。そんな弟子たちを、だから叱責されたとか呪われたとかいうのではなく、祝福して下さいました。 思えば、天に昇られる時に祝福されたという表現は、主イエスの地上のご生涯とお働きを総括している表現だと言えるのではないでしょうか。 この「祝福」の表現をニケヤ信条はこう表現しています(讃美歌九三-四、十行目。三八一年)。主は人間である私たちのため、私たちの救いのために、天から降り。これはクリスマスだけでなく、天に昇られたのも、主は人間である私たちのため、私たちの救いのために、天に昇られました、と言えるに違いありません。ルカはその終わりにこれを、祝福なさった、と記した訳です。 主イエスの地上のご生涯とお働きは、天に昇られる時に至るまで、私たちから見れば過去の出来事です。今の主イエスはどうなのだろうか。それは、今も神の右に坐しておられる訳ですが、過去の主イエスと別のことをしておられる訳ではありません。過去において人間である私たちのため、私たちの救いのために降って来られ、今も人間である私たちのため、私たちの救いのためにおられ私たちを執り成し、将来人間である私たちのため、私たちの救いのために再び来たり給う。全て、祝福するためです。そのようにイエス・キリストは、昨日(きのう)も今日も、また永遠に変わることのない方です (ヘブライ一三・八)。 天に昇られた。これはキリストにとっては、その後、神の右に坐するためです。 「私の右の座に就くがよい。私はあなたの敵をあなたの足台としよう」(詩編一一〇・一)。これは王に即位する時の詩ですが、キリストは父なる神と等しい者として王としての権威と栄光に包まれるお方として、神の右の坐に就かれる。このことが、キリストに明確になるということです。 それなら私たちにとって、キリストが天に昇られたことは天に昇られて遠くへ行ってしまわれたということになるのでしょうか。もし復活のキリストが天に昇らずに地上におられて、仮にエルサレムに行けばお会い出来る、ということになれば、地上におられることになりますが、それでみんな神はおられると認めるようになるのでしょうか。認めるとしたら、そもそも地上でお会い出来た主イエスを十字架につけることはないでしょう。みんな認めない。エルサレムに行けばお会い出来るというのは、裏返して言えば、エルサレムに行かねばお会い出来ない、ここにはおられない、ということになります。また見ないで信じる者は幸い(ヨハネ二〇・二九)という信仰の幸いはなくなってしまいます。 天に昇られたからこそ、自分にとっては今、聖霊にあってキリストはここにもおられることになります。これは信じることです。
私の小学生の頃、サンダーバード国際救助隊というイギリスの人形劇がテレビで放映されていました。サンダーバード5号は宇宙ステーションで、地球上のどこから発信された救難信号や救助を求める電波も、どれ程微弱なものでもキャッチ出来る。地上では駄目なんです。宇宙でキャッチして救援に向かう指示を出せる。日本も自衛隊よりも国際救助隊を創設したら良いのにと思ったものです。
キリストも天に昇られたからこそ、人々の救いを求める叫びや祈りを、世界中のどこからでも聞き取って下さる、却って身近になります。 先ほど、ルカ福音書はその終わりに主イエスのご生涯の総括として祝福なさる昇天を記した、とお話しました。使徒言行録は、昇天の記事をその冒頭に記します。昇天から使徒の働きが始まる。昇天の意味をこう語っています。 「あなた方の上に聖霊が降ると、あなた方は力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、私の証人となる」(使徒言行録一・八)。そして、こう話し終わると、イエスは彼らが見ている内に天に上げられたのでした。キリストが天に昇られたことが、力を受けて、弟子たち、キリスト者たちの証人としての生き方になる訳です。まず自分に対して、キリストの証人になります。自分は主イエスを御子キリストと信じるキリスト者です、と告白できるようになる。そして他者に対して、神様はいらっしゃいます、と証しする証人になります。これが使徒言行録がここで告げていることです。そして、これは地上の歴史の中で起こる事です。 キリストが天に昇られて、お姿が見えなくなる。キリストは本当におられるのか。私たちが、未信者の人からこう問われたら何と答えるのだろうか。神はおられて自分の人生を導いて下さっています、とどうして言えるのか。それぞれ自分の証し=証言になります。世界史においても、やはり導いておられると信じます。地球は青かったと語ったソ連の宇宙飛行士ガガーリンは、地球が一つであること、そこに暮らす人類が一つであることを発見したのではないか。昔に比べたら、世界は、国際社会は一つになっている。まだ紛争は起こる。第三次世界大戦もあるかもしれない。でもそこで国際社会は、国際連盟、国際連合に続く国際平和機関を設立し、将来は国家の区別もなくなっていくのではないか。聖書が、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もない。あなた方は皆、キリスト・イエスにおいて一つ(ガラテヤ三・二八)と言っている事柄に向かって世界史が導かれている。一見隠れているようですが、神様の地上の歴史での導きだと言えるのではないでしょうか。これも信じることです。 もう一つ、人となられたキリストが、死人の内から復活し、天に昇られた。だから同じ人間である私たちも、死んでもいずれ甦らされ、天に挙げられるのだ。私たちはそう信じます。パウロはこう語りましたしかし実際、キリストは死者の中から復活し、眠りに就いた人たちの初穂となられた(Ⅰコリント一五・二〇)。ならば天に挙げられることも、キリストが初穂になって下さった。その後の実りの穂として私たちも続く、ということです。 本で読んだある方の「証し」にこうありました。妻が亡くなられるとき、「房子、復活の朝は近いぞ、頑張れよ」って声をかけました。「はい」と返事をしました。信仰というのは、神様から与えられなくちゃ、どんなに私たちが努力して求めても掴み取ることは出来ないものなんです。だからこそ福音と言えるのです。そういう素晴らしい復活があるので、死ぬことは恐ろしくはない。そんなことを生活の中で語り合い、信じ合って暮らしてきた故に、最後に「復活の朝は近いぞ、頑張れよ」と言えた。房子も上受け止められたんだと思います(最相葉月「証し」角川書店)。 ここには天に挙げられることは触れられていませんが、昇天の信仰も含まれていると言っていいでしょう。夫婦の間で、見事に証しし合っています。「復活の朝は近い。私は甦らされて、そして天に挙げられる。あなたもそうだ」。「そうですね」。こうお互い同士、語り合い信じ合って、信仰を分かち合う。このご夫婦はハンセン病の方だったようです。この世的に見れば、神を見失ってもおかしくない困難を強いられた。でも喜んでいる。神様から力を受けているからこそですね。 皆さんの家族同士でも同じです。教会も同じです。語り合い信じ合い相互牧会しながら支え合う。また家族に信じていない人がいても「私はあなたが甦らされて天に挙げられると信じています」、そう思い語りながら、親しい家族を天に送る。こういう仕方で私たちは、死を克服する希望を与えられている。これも神様から力を受けているということです。使徒信条を告白する度に、私たちはこの希望を確認しています。