日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2022年5月22日 説教:森田恭一郎牧師

「キリストの平和に向けて」

ホセア一二・一〇
エフェソ四・七~一三

今日は礼拝後に総会があります。また今週木曜日は教会の暦では昇天日になります。昇天日は、ルカ福音書-使徒言行録によりますと 主イエスの甦り=イースターから四十日目、聖霊降臨日=ペンテコステの十日前にあたります。そこで今日はそのことを念頭に平和を考えたいと思い昇天の意味、効果を記すエフェソ書から聖句を選びました。

エフェソ書も平和を宣言しています。実に、キリストは私たちの平和であります(二・一四)。また、その終わりの祝福の言葉も平和を告げています。平和と、信仰を伴う愛が、父である神と主イエス・キリストから、兄弟たちにあるように(四・二三)。

 

キリストの昇天。通常私たちは、それを執り成しの視点から考えることが多い。「死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、私たちのために執り成して下さるのです。(だから)誰が、キリストの愛から私たちを引き離すことが出来ましょう」(ローマ八・三四~三五)。甦りのキリストが、地上から天に登り神の右に座られる。座って、困難の中にある私たちのために執り成して下さる。

今日のエフェソ書は、昇天を私たちへの賜物に関係づけています。しかし、私たち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。そこで「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、人々に賜物を分け与えられた」と言われています。「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。この降りて来られた方が、全てのものを満たすために諸々の天よりも更に高く昇られたのです(エフェソ四・七~一〇)。クリスマスに低く降りて来られた方が、全てのものを満たすために天に昇られたのだ、と昇天と賜物を関係づけています。そしてその賜物は、教会を建てるために用いられる、と言っているようです。

教会は、旧約時代からの用語で言いますと、神の家、神殿、天幕と重ねられる。神がご臨在為さる場所です。そして、私こそあなたの神、主。エジプトの地からあなたを導き上った。私は再びあなたを天幕に住まわせる。私があなたと共にあった日々のように(ホセア一二・一〇)。神のおられる場所に、地上の私たちを住まわせて下さる。

私たちが亡くなりました後についても、主イエスが約束下さいました。「私の父の家には住む所がたくさんある。行ってあなた方のために場所を用意したら、戻って来て、あなた方を私の下に迎える」(ヨハネ一四・二、三)。私はこの主イエスのお言葉を、ご遺体を棺に納める納棺の時などに読みます。亡くなった後に私たちが迎えられる天国の住まいという意味でこの聖句を味わいますが、主イエスの父の家にある住む所と言いますのは、地上の教会のことだと理解することも出来ます。

 

エフェソ書に戻りますが、この住まいを教会として地上に建てるために、そしてある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです(エフェソ四・一一)。まだ新約聖書が編纂される前でした。聖霊なる神様は、ある人たちを、神の御子、甦りの主イエス・キリストを証言する使徒、地域を巡回して福音を告げ知らせる預言者や福音宣教者とされました。その福音を土台として各々の教会を建てる牧者や教師となさいました。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされキリストの体を造り上げてゆき、ついには、私たちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり (同一二節~)。主イエスを神の子と認識し告白する言葉が整えられて一つの教会が建ち上がっていく。そこに招かれた私たちも、成熟した人間になり、キリストの満ち溢れる豊かさになるまで成長するのです。

一四節以下も読みますが、この成熟した人間の反対は未熟な者。それは、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もて遊ばれたり、引き回されたりする。神の子に対する信仰と知識が曖昧で、周りの教えに引きずられてしまう未熟な人の姿です。成熟な者はむしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。

様々なことがあっても、その中でむしろ、神の子に対する信仰と知識がしっかりしてくる。先週、躓くという話題を話しました。自分の期待に添わない、期待外れということです。主イエスは私に躓かない者は幸い(マタイ一一・六)と仰いました。

人となられた神の御子主イエスに躓かない、また敢えて言えば牧師に躓かない、そして教会員同士躓かない。教会の現実の姿に躓かない、引き回されない。そうではなく、教会の頭はキリスト、教会はキリストの体である、と、教会を信じる信仰が求められる。そして、頭であるキリストに向かって成長する(一五節)。

この信仰がどこで訓練されるかと言いますと、

ここでは三つ。まず、教会はキリストの体であるという知識として弁えているということが一つ。次に、でもその知識が頭の中に留まらないで愛に根ざして真理を語りという教会員同士の執り成しの慰めの語りと祈りの具体的な営みになるということ。そして三つ目は、キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、各々の部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく(一六節)ということです。

 

今日はこの三つ目のこと特に覚えたいと思います。先程、キリストの昇天についてエフェソ書はこう語っていました。この降りて来られた方が、全てのものを満たすために諸々の天よりも更に高く昇られたのです(二・一〇)。それで、私たち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています(二・七)。

そのように恵みを与えられている私たちが、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、各々の部分は分に応じて働いて(一六節)というキリストの体の出来事に加わる者とされます。

小島誠志牧師の「聖句断想」の先日の言葉の中に、結び合わされることについての言葉が載っていました。私たちの賜物は神によって「分け」与えられたものであります。一人が全てを持っている訳ではありません。神がそれぞれの肢体に相応しい賜物を与えて下さっているのです。私の賜物は、兄弟の賜物と結び合わされることによってだけ生きるのです。また、教会のことを言っています。教会はキリストの体だというのです。各自はその部分だと。どんなに有能な人でも、体の一部に過ぎないことを認識しなければなりません。逆に「自分のような者は役に立たない」と思っている人でも、キリストにとっては、なくてはならない体の部分なのだ、ということを忘れてはなりません。

 

今日、一階の掲示板に張りましたが「教会の働きと担い手2022」のアンケート結果です。皆さんがそれぞれ、奉仕とまとめ役を担って下さるお申し出の表です。お申し出を有り難く思っています。皆さんの賜物が結び合わされて、教会が生きてきます。今日は礼拝後決算総会です。昨年度の営みを主の御前に報告し、私たちも振り返ります。何を目指し始めた一年であったのか。「共にみ業に仕え支え合う教会」の標題を掲げています。お互いが補い合い、組み合わされ、結び合わされていく。エフェソ書は平和を宣言しています。ただ争いがないだけでなく、このように結び合わせて愛によって造り上げられていく。それが平和なのでしょう。河内長野教会はそのような前向きな平和の教会を目指しています。昨年度がその一年目。それを試行錯誤しながら今年も引き継いで、今年度は、キリストの満ちあふれる豊かさにまで成長する二年目です。