エレミヤ 六・一六~一七
使徒言行録一六・六~一〇
先週の聖霊降臨日の礼拝では、聖霊の働きは出会いを導くと申し上げました。キリストが私たちと出会い、私たちは信仰を与えられてキリストの出会いを受け止め、キリストの愛の下にある者としての隣人と出会う。聖霊の導きによるものです。それで今日は、使徒言行録、聖霊が出会いへと導いた記事から御言葉を味わいます。
さて、彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った。パウロは、自分たちの伝道計画を立て伝道の夢を描きながら伝道旅行に出向きました。アジア州というのは今の小アジア、トルコの地域です。その中心地の一つ、東海岸の例えばエフェソに向かおうとしたのでしょう。その途中にはコロサイもあります。ところが、東へと向かう道が聖霊によって禁じられてフリギア・ガラテヤ地方を通って、ミシア地方、地図を見ると北東へ行くことになります。
そして、ここまで来たら今度は小アジアの北岸沿い西方向のビティニアの方へ行こうと考えたのですが、ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった。またもや何故か、イエスの霊がそれを許さなかったという。それで、ミシア地方を通ってトロアスに下った。トロアス、小アジアの一番北東の港町まで来てしまった。聖霊の導きというのは遮る仕方で現れる事もあるのですね。
そうしたら、その夜、幻を見ます。その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、私たちを助けて下さい」と言ってパウロに願った。マケドニアは、そのままトロアスから東北へと突き抜けて、海を越えた対岸のヨーロッパ側です。
パウロにしてみれば、ヨーロッパに渡るなんて予定はなかった。アジア州に留まって伝道しよう、それが現実的な考えだったことでしょう。伝道計画は、人間の側としては、頭で考えよく練って進めるべきものですが、忘れてはいけない事がある。伝道を導くのは聖霊です。そして聖霊の導きの下にある、人との出会いです。聖霊は、幻の内にマケドニア人との出会いへと導きました。「マケドニア州に渡って来て、私たちを助けて下さい」。
このマケドニア人の叫びを聞き流すことは出来たかもしれない。事実、世の中には助けを必要としている人々の叫びが無数にあります。その全てに関わっていたらこちらが潰れてしまう。それで私たちは他人事として聞き流すことが多い。
でもこの晩、聞き流せなかった。パウロがこの幻を見た時、私たちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。それはマケドニア人の叫びが、他人事ではなく自分の人生に無視しえないものとなったからです。何故か。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神が私たちを召されているのだと、確信するに至ったからである。マケドニア人との出会いが、神様のご計画へと召しておられると気付かせる聖なる出会いになりました。それでパウロは聖霊に押し出され導き出されてマケドニア、即ちヨーロッパ大陸に渡ることになりました。それは、壮大なヨーロッパ伝道を夢見ることが先にあったのではなく、あくまでもこのマケドニア人との出会いに突き動かされての展開です。
エレミヤ書に、主はこう言われる。「様々な道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ。どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ」とあります。ここで河内長野教会の歩んできた道に問いかけてみたい。
河内長野教会は清教塾を介して清教学園を生み出しました。そこに思いを巡らしてみると、清教学園設立は、人々が考えた計画案があってその計画に基づいて事を進めたのでしょうか。そうではなかった。清教塾の子どもたちとの思いがけない出会いが起こった。子どもたちが学校を造って欲しいと言って来た。子どもたちが募金活動を始めてしまった。それを市民の人たちが応援してくれた。それで始まった。河内長野教会の教育事業計画はこの子どもたちの出会いに押し出され引っ張り出されて始まったのでしたね。
植田慎一先生も中山昇先生も、子どもたちの願い、叫びを、子どもたちの戯言(たわごと)、他人事として聞き流すことなく、その結果学園設立が自分の幻になっていきました。このために神様が召しておられるのだという光が自分の心の中に差し込んでくる。これを召命と言います。中山昇先生と澤田啓祐さんには西條大橋での正に星の輝きとなって差し込んで来た。これは頭で考えた理屈ではなく、体験の出来事です。聖霊の導きです。
先々週味わいました詩編の御言葉ですが、主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えて下さる。十歩、百歩、千歩、万歩先の見通しが与えられてというのではない。一歩一歩です。そして、一歩一歩の歩み出しは、歩きながら気付くということです。車で走り抜けるのでは見落としてしまう道端の草花に気付くのと同じです。一人ひとりのその叫びに気付きます。
河内長野教会に赴任してきまして、これは大事な事だと思わされたことがあります。長老会や祈祷会で、お名前の一覧表が用意されます。病気の人、入院中の人、当教会の礼拝に出席する未受洗の人、最近この教会にお見えになった人、最近お姿が見えない人、当教会で葬儀を挙げられたご遺族の方等々のお名前です。お一人おひとりを忘れないで絶えず意識し、配慮すべき事に気付くことが出来るようにするためです。教会・長老会として当然のことですが、行事などに追われると意外と難しい。牧師一人では出来ません。そこで皆さんに応援して欲しいことがあります。
皆さんは、あの人どうしているかなと、よく電話で連絡を取り合っておられますね。また葉書をお描きになる方もおられます。これは、お一人住まいの方、家庭で信仰者がお一人の方などにとって、どれ程、支えになることでしょう。相互牧会などと言うと難しく響くかもしれませんが、お互いを忘れずに気付いて気遣って皆さんが既にやっておられる関わりです。私たちは既にキリストの愛と恵みを受けた、血の通う共同体です。
それで何を応援して欲しいのかと言いますと、これらの関わり、その人と自分の間の個人的な関わりを維持しながら、これに加えて、お互いの関係が教会の営みとして現れる相互牧会の形としても展開出来ないかということです。そうすれば、より多くの人が共有できますし、次の世代の人たちにも受け継いでいけるようになります。
教会の今年の営みも、今までとは異なる視点で一人ひとりに新しく気付き、新たに届く出会いがあれば、そこから何か考え始め、そして心を配る新たな形が芽生えて行く。牧師も含めて私たち皆が相互に牧会する者です。相互牧会の形をどう夢幻に描いて行くか、今年の課題でもあります。
更に市民の一人ひとりに気付くものでありたいと願っています。一つの形として食堂や患者会を試み始めています。やろうという動きが出て来た。協力したいと申し出る方たちもおられる訳で、それはこの教会のDNAがそこに形になって現れているのではないですか。ただ企画した側の思いと計画だけでは、空回りしてしまいかねません。そこに出会いが起こり、自ずとこの人のために力を合わせよう、そして利用者の方と喜びを分かち合うようになると、教会の営みは、気が付けば血の通った開かれた営みになっている。聖なる出会いの中に、教会の私たちの夢幻が広がって行きます。