ヨブ一九・二三~二七
ローマ八・二三~二五
使徒信条の本日の主題は「身体の甦り」。主イエス・キリストはクリスマスに肉体を以てこの世にご降誕なさいました。十字架で亡くなられ、身体を以て甦られました。仮死状態にあったのが蘇生したというのではなく、確かに死んで身体ごと甦られました。身体の甦りの意義は何なのか、今日の主題です。
このことを指し示す甦りの主イエスのお言葉があります。 「私の手や足を見なさい。正しく私だ。亡霊には肉も骨もないが、あなた方に見える通り、私にはそれがある」(ルカ二四・三九)。単なる霊魂ではなく身体の甦ったことによって「正しく私だ」と「私」であることの確認をしておられます。自分が自分であるというのは、霊魂や心や精神だけでは不充分です。それと共に身体があってこそ、自分であり、自分の個性が明らかになります。そしてもう一つ加えるなら、その身体を以て生きた、その人の人生も含めてその人の「自分自身」がある、と言えるでしょう。
この主イエス、お心とお身体と十字架と復活に至るその人生を伴う主イエスと、弟子たちは出会ったのでした。でも弟子たちは、神の御子イエス・キリストだから特別でしょ、とは思わなかった。甦りの主イエスとの出会いの経験から、自分たちも、心も含めた自分の全体としての身体が甦らされる、と信じました。これは奇跡です。自分の身体の甦りを信じるなんて、通常の人間経験からは想像も出来ません。実に、甦りの主イエスとの出会いには理屈を超えたインパクトがあった訳です。
以前にもお話ししたかと思いますが、身体の甦りを巡って、ある身体障がいをお持ちの方がこう言われました。「キリスト教は身体の甦りを信じるそうだが、もしそうなら、私は天国に行ってまでこの障がいを抱え続けることになるのか。そのようなことはまっぴらご免だ」。そのお気持ちは分かりますよね。障がいそのものの辛さ、それに伴う社会生活の不自由さと人生の労苦、なんで自分が…と思う神への問。心も身体も含めた人生の労苦をそのまま天国に引きずっていくなんて、もううんざりだ。その通りだと思います。でも、そこには誤解があります。身体の甦りはこの地上の肉の身体がそのまま甦らされるということではないからです。
思えば、身体障がいに留まらず、人には皆、多かれ少なかれ、人生の哀しみがあります。例えば病を患う、中には遺伝性で生まれながらにして病を負っている人もいます。この親のもとに生まれた事から来る不公正さ。遺伝のこともそうですが、また例えば経済的に恵まれた家庭とそうでない家庭、自ずと同じではありません。生まれる時と所もあります。例えば昭和一桁生まれの世代の労苦、沖縄で生まれ育つのと本土で生まれ育つのではそこで負うものも異なるに違いない。この時代にここにこの親のもとに生まれたという、本人が選択できない、敢えていうなら運命的なものを皆、背負って生きています。また自分の選択で負う労苦も当然あるでしょう。そういった具体的な個性的な人生を肉の身体を以て、私たちは生きている。
旧約聖書のヨブの物語。自分のせいではないのに、財産を失い、病を負って、どうしてこんな人生になったのかと神に問いかける物語です。そのヨブが言う。自分の人生の哀しみを知ってもらいたい。どうか、私の言葉が書き留められるように。碑文として刻まれるように。たがねで岩に刻まれ、鉛で黒々と記され、いつまでも残るように (ヨブ記一九・二三~)。その人生の哀しみの解決をこう願って言う。私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって、私は神を仰ぎ見るであろう。この私が仰ぎ見る。他ならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る。ヨブが願った解決は、財産を回復し病気を治して下さいというものではなかった。これらは、もうどうしようもならない自分の人生の現実でした。そこでヨブの願いは二つ。一つはこの身を以て仰ぎ見たいということ。口語訳聖書などでは、この身を離れてと翻訳して暗に復活の希望を語っている言葉にしていますが、新共同訳聖書では、現実の「この身を以て」です。地上の人生の哀しみの只中から神を仰ぎ見たい。そしてもう一つは、仰ぎ見たい神とは「私を贖う方」です。
パウロも同じ事を願い求めます。被造物だけでなく、〝霊〟の初穂を戴いている私たちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中で呻きながら待ち望んでいます(ローマ八・二三)。 贖うとは、代価を買い取り、自分のものとすることです。私たちはよく「罪の贖い」と言います。そこでは神様がキリストという代価を払ってご自分のものとなさるのは、罪と罪に対する罰であり、そこに私たちは救いを見出します。でも神様が贖い取るのは罪だけではありません。人生も心も含めた自分自身としての「体の贖われること」もある訳です。ヨブもそれを求めました。
そしてヨブが「この身を以て」と語ったのと同じ事をパウロも語ります。パウロは人間の身体の甦り=死者の復活について、私たちを種になぞらえてこう語りました。蒔かれるときは朽ちるものでも朽ちない者に復活し、蒔かれるときは卑しいものでも輝かしい者に復活し、蒔かれるときには弱いものでも力強いものに復活するのです (Ⅰコリント一五・四二~)。そして復活の時にはこの朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります (Ⅰコリント一五・五三)。パウロも刺、何らかの病を抱えていたことを述べています。パウロはきっと、自分の身体の刺の所に手を当てながら、この朽ちるものが、この死ぬべきものが、と語る。でも復活の時に、身体の甦りの時に、地上のこの朽ちるものがそのまま甦らされるのではなく、贖い取って戴くことを通して、朽ちないものに復活すると語っています。あの身体障がいの人も、その体ごと贖われて、朽ちないものへと甦らされる。今の地上の身体のまま甦らされるのではありません。 パウロは更にこうも語っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえ出来る力によって、私たちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えて下さるのです(フィリピ三・二一)。地上での経験をもう遥かに超えて成就する恵みの世界です。
なぜパウロは、人間経験を超えた光景をこうも言えるのか? それはキリストが十字架で贖って下さったからです。
私たちは御前に立つ時、全てを語ったら良い。自分の人生の喜怒哀楽の全てを。そして罪人ですから、時には不信仰であったり、時には信仰の思いを熱くしたり、時には加害者になり、時には被害者になり、被害者として相手の罪を赦せないままの辛さも抱えて生きてきたこと。未解決のまま、不条理を負ってきたことも遠慮無く申し述べたら良い。申し開きの部分もあるでしょう……。 私たちは審きを受けねばなりません。キリストは、審き主として、これはあなたの罪で良くなかったね。これは辛い中頑張ったねと判決して下さいます。そして同時に救い主として、その全てを私が十字架で贖い取っている、と御自身の十字架の傷跡をお示しになりながら「平和があるように」と宣言して下さる。主イエスの御子の救い主のお姿を認識出来ることでしょう。私たちはキリストの十字架の贖いと復活のことを信じていますが、この自分の身体の甦りの時に、十字架のキリスト、復活のキリストを一番身近に、自分のために為された御業であったと体感することでしょう。
終わりにひと言。私たちは聖書の言葉に導かれて、朽ちるものから朽ちないものへ、更には、キリストの栄光ある身体と同じに変えられ、そのように自分の身体の甦りを信じることが出来る。とするなら私たちは、自分の現在の地上の朽ちる身体と哀しみをたたえる人生を愛(いと)おしむことが出来るようになるのではないでしょうか。キリストが十字架に於いてこの私の人生を受けとめておられる、ということが分かるからです。そしてさらに相手の存在と人生をも愛おしむ眼差しを以て受け止める事も出来るようになるのではないでしょうか。終末時における身体の甦りを信じることは、地上での人生を愛おしむ現在の営みを支えるに違いありません。