日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2023年11月26日 説教:森田恭一郎牧師

「この人たちも神の栄光をたたえます」

ゼカリヤ書  二・五~九
ヨハネ黙示録一一・一~一四

本日は教会暦では終末主日になります。世の歴史の終末、すなわち完成の時が到来する事を覚える主日です。悪は滅びますが、悪人も私たちも、被造物も全て、御前にぬかづき礼拝をささげて神の栄光をたたえるようになります。このことを、今日のヨハネ黙示録も語っています。私たちもこれを確信しつつ、終末主日の礼拝をささげます。

今日は礼拝後に「証し」を主題に壮年会・婦人会の合同の集会を予定していますが、丁度、今日の聖書個所にも証する人、二人の証人が登場します。証人について思いを馳せながら、今日のヨハネ黙示録の御言葉を味わいます。

黙示録のヨハネが生きた時代は、キリスト教徒の殉教を予想しながら歩んだ時代でありました。今日の箇所、新共同訳聖書は「二人の証人」という小見出しをつけていますが、ヨハネが幻の内に見た二人の証人も殉教します。一見、空しく終わるだけのように見えます。でもそれで終わらない。様々の民族、種族、言葉の違う民、国民に属する人々(黙示録一一・九)は、終わりの時に天の神の栄光をたたえて、世界は完成の時を迎えます。

 

まず今日の箇所の概要を把握したいと思います。ヨハネは幻の中で物差しを与えられ、神の神殿を測り、礼拝者の人数を数える。神殿の外には礼拝者に敵対する異邦人がいて、聖なる都を踏みにじる。そして悔い改めを象徴する粗布をまとった二人の証人が登場する。この二人は預言者とも記され、預言をしている四十二か月、千二百六十日、三年半の間、まるで旧約聖書のエリヤのように雨が降らないように天を閉じる力を与えられ、またモーセのように水を血に変える力を与えられる。そうでありながら、一匹の獣に殺されてしまう。この獣は、当時のローマ帝国の権力を象徴し、そして三日半の間、葬られもしない二人の死体を眺める地上の人々は、彼らのことで大いに喜び、贈り物をやり取りした。三日半経って、この二人は復活して雲に乗って天に上る。すると地上では大地震が起こり、都の十分の一が倒れ、七千人が死んだ。残った多くの人たちは、恐れを抱いて天の神の栄光をたたえる。以上が概要です。

 

黙示録の著者ヨハネは、聖書をよく知っている人物でした。特にダニエル書やエゼキエル書の黙示文学に共感を覚えていたようです。黙示文学はその時代ごとの政治権力が信仰者を弾圧してくる状況の中で、神様がこの世を御支配しておられるはずなのに、なぜ信仰者が苦しい思いをしなければならないのかを問いつつ、世の終わりには悪者は滅ぼされ信仰者たちが天上の祝福に与ることになると、現実の苦難の中にありながらも希望の内に生き死ぬ勇気を戴くための文学形態です。

ヨハネも聖書が描くイメージを用いて、ヨハネ黙示録を描いています。それで今日の箇所でも、例えば、神の神殿を測るのは、ゼカリヤ書の私が目を留めて見ると、一人の人が測り縄を手にしているではないか。エルサレムを測り、その幅と長さを調べる(ゼカリヤ二・五-六)を私たちに思い起こさせます。

四十二か月とか一千二百六十日とか、三年半の数字も、ダニエル書を思い起こさせます。彼らはいと高き方に敵対して語り、いと高き方の聖者を悩ます。彼は時と法を変えようと企む。聖者らは彼の手に渡され、一時期、二時期、半時期(=足して三年半)が経つ。 やがて裁きの座が開かれ、彼はその権威を奪われ、滅ぼされ、絶やされて終わる(ダニエル七・二五-二六)。

証人が何故二人なのか。これも既に聖書に例があります。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない(申命記九・一五)。それは 主イエスも言われました。二人または三人が私の名によって集まる所には、私もその中にいる(マタイ一八・二〇)。あるいはまた、主イエスが御自分が行くつもりの全ての町や村に二人ずつ先に遣わされた(ルカ一〇・一)とありました。ヨハネが申命記や福音書の記事から二人の証人を語っているのは明らかです。

 

ヨハネ黙示録は、裁きの出来事にしても数字にしても、実際にそうなるという事ではなく、旧約聖書や福音書からイメージを借用して、その意味では聖書的な表現をしている訳です。しかも、ヨハネ黙示録も新約聖書です。すなわち、主イエス・キリストの光の下で解釈しています。二人の証人が結局は殺されてしまうことも、それで終わらない。この二人の証人の主も、この都で十字架につけられたのである (黙示録一一・八)というように、キリストが共にいて下さる死になる、あるいはそれこそ、主イエスの十字架の死を証する証人の死になっています。

そして主イエス・キリストの福音の光の下で解釈する極め付きはこれです。七千人は旧約では滅ぼされない残りの者の人数であるのに対し、ここでは、滅ぼされるのが七千人で、他の残った多くの人が神の栄光をたたえるようになる。これも実際に七千人が死ぬという話ではなくて、文学表現として旧約を新約の福音の光の下でひっくり返した文学的手法です。福音による救いを強調していると言って良いでしょう。ここで登場する、残った多くの人たちは、黙示録のこれまでの所では、審判に遭う中では悔い改めません(黙示録九・二〇参照)でしたが、ここでは二人の証人の証言の正しかったことによって悔い改め、神の栄光をたたえます(黙示録一一・一三参照)!

繰り返しますが、信仰者たちだけが救われて神の栄光をたたえる、というのではありません。信仰者に敵対していた人たちも悔い改めて神の栄光をたたえるに至る訳です。ある註解書では、この十一章が黙示録の中心使信を表現している箇所だと言っていますが、ヨハネはこの世の歴史の完成を、全被造物の礼拝=万物の礼拝に見ている訳です。殺される側の殉教者が、万物の礼拝の内に、迫害者の救いを幻の中に見出している。信仰の視点と言いますか、信仰の心というのはこの万物の救いという大きなスケールを持っているのですね。それは、言うまでもない、十字架につけられた主イエス・キリストが「父よ、彼らをおゆるし下さい」(ルカ二三・三四)と祈られた、ご自身の信仰の心の大きさに由来するものです。

 

さて、今日は礼拝後に 「証し」を主題に壮年会・婦人会の合同の集会を予定していると申し上げましたが、その会で『証し』という題の書物を取り上げます。著者は信仰者ではありません。その本は著者が、信仰者に取材した証しの言葉をまとめた書物です。著者がこれを思い立ったその動機をこう語っております。何故、あなたは神を信じるのか。インタビューにあたって、キリスト者に度々回答を求めた質問があった。その一つは、自然災害や戦争、事件、事故、病のような不条理に直面してもなお、信仰は揺るぎないものであったかということ。神を信じられないと思ったことはないか。それでもなお信じるのは何故かということ。それから、教会で傷つく。教会に傷つけられる。それでも信仰を捨てなかったのは何故か と訊ねている(「証し」まえがきに代えてからの引用。最相葉月 二〇二二年 角川書店)。

信仰者でない著者が信仰者に対して抱くこの不思議さ。著者は証し、証言をこう定義しています。「証し」とは、キリスト者が神から戴いた恵みを 言葉や行動を通して 人に伝えること。この問に対して、私たちも信仰者として、自分のここまでの人生を貫く不思議さをどう表現するのか。皆さんは、この問にどう応え、どう伝えますか。

ヨハネもまた、神がご支配するはずの歴史の現実の中で、自らの殉教を予想する不条理な現実の中で、それでもなおキリストを信じた、これをヨハネはヨハネの黙示録として証ししているのです。その中心使信がこの一一章です。世の歴史は様々の民族、種族、言葉の違う民、国民に属する人々、更には万物の礼拝をもって完成する。終末主日にこの幻を戴きながら、私たちも神の栄光をたたえます。

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