イザヤ書五三・一~一二
ヨハネ 一三・一~五
主イエスは弟子たちの足をお洗いになりました洗足は、主イエスの見えない愛が見える形になって現われた行為です。主イエスはこの上なく愛し抜かれました。愛し抜かれた。今晩はこの言葉を味わいたいと思います。洗足はまた、仕えられるためではなく仕えるために来たことが最も明らかになる十字架を指し示す行為でありました。
洗足に先立って、主イエスはその時が来たことを悟られました。ヨハネはこう書き出します。さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、御自分の時とは、どういう時なのでしょうか。
「この世から父のもとへと移るご自分の時」とあります。主イエスが移ろうとされている父のもと=天上の世界では、父なる神の愛が満ち溢れ救いが成就していることが明らかな世界です。ご自分の時とは、終末に於いて明らかになる神の愛を、歴史の中に先取りする時です。
「ご自分の時」は御自分が十字架におかかりになる受難の時でもあります。その受難は、十字架を通して終末の救いを完成させます。それをご自分の御業として、今為さる時が来たと悟られました。
ヨハネ福音書は続けて記します。世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。愛してこの上なく愛し抜かれた、と訳しています。この訳での響きは、まず、主イエスご自身の主観的、主体的な意志として妥協することなく愛し抜く徹底した愛を表しています。口語訳聖書では「最後まで愛し通された」と訳出していました。この訳語は原文のニュアンスをそのまま伝えています。主イエスの人生の終わりまで使命を達成しきって意志を貫いて生きられたという事です。
また、最後までを「目標まで」と訳しますと、愛による救いの客観的な目標の実現まで愛し抜かれた訳です。
それから「弟子たちを極みまで愛された」という訳もあります。罪人以外の何者でもない私たちの極みまでというように響いてきます。愛の対象としての罪人なる人間です。
色々な響きを醸し出す「この上なく愛し抜かれた」という表現を心に留めたいと思います。
ところで、洗足の出来事はヨハネ福音書にだけ記事となっています。代わりに同じ前後関係で共観福音書に載っているのは主の晩餐です。聖餐の記事はヨハネ福音書にはありません。なぜ聖餐ではなく洗足なのか。ヨハネ福音書が記された頃、ヨハネの教会では、洗礼を受け聖餐に与る者の中から背教者が出て来た。迫害が厳しくなってきたからです。主イエスは一四節で「私があなた方の足を洗ったのだから、あなた方も互いに足を洗い合わなければならない」と言われました。ヨハネの教会は、キリスト教徒は信仰を得ることと併せて、信仰者として生きることを真剣に求めたのでした。まさに罪人でしかない私たち、迫害があれば背教してしまう弱さを抱えた人間が信仰に留まり得たのは、足を洗い合うことに象徴される日々の牧会の生きる営みの中でこそ可能だったのです。支え合いが必要だった。
それは私たちも同様です。今日の日本では迫害の故に背教することはありませんが、うっかりすると、週日は信仰者としてではなく生活してしまうサンデークリスチャンになりかねない弱さを抱えている。あるいは様々な理由で礼拝に出席できなくなり、教会から離れがちになる弱さを抱える。そのような中で、主イエスの愛を思い起こして、罪赦され、信仰者であるように支えられるために、相手の弱さ、罪を赦す思いを以て足を洗ったり、自分の弱さ、罪を赦してもらうことを願い感謝しながら洗ってもらう、週日の相互の牧会は前向きな意味があるのではないでしょうか。
足を洗って戴いた弟子たち、その中には裏切ったユダも含まれています。他の弟子たちだって結局は主イエスを見捨てて逃げ去ったのですから同じですが、主イエスはユダをも愛し抜いたのです。私たちが弱さを抱えながら、この信仰の危機を乗り越えることが出来るのは、私たちが強くなることによってではない。主イエスが私たちを愛し抜いて下さることによってです。
只今より聖餐に与ります。パンと杯の中に、主が愛し抜かれた愛を確認し、それを信仰を以て手に受け取り、食し飲み、聖餐を、足を洗い合うことに象徴される信仰に生きることの基盤にします。