日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2020年11月1日 説教:森田恭一郎牧師

「こころに宿る主の言葉」

イザヤ三三・二二
ヤコブ 四・一一~一二

主イエスは、最も重要な掟、律法を二つ挙げられました(マルコ一二・二七~)。神を愛することと隣人を愛することです。律法が示すことは、人間の行う行為、行ってはならない行為を示すものですが、その前提に私たちに向けられた神の愛があります。私たちの行為は、神への応答としての私たちの奉仕です。

この奉仕が一方では主なる神に向かいます。「神は、その独り子をお与えになった程に、世を愛された」(ヨハネ三・一六)、この神の愛に応答して、神に向かっては、礼拝をささげ賛美をささげ神を愛します。

神様への応答としての私たち人間の側の奉仕が、他方において隣人に向かいます。同じ三章一六節ですが、ヨハネの第一の手紙でこう語ります。「イエスは、私たちのために命を捨てて下さいました。そのことによって私たちは愛を知りました。だから、私たちも兄弟のために命を捨てるべきです」。隣人に向かっての愛の業となります。

 

今日のヤコブ書は、悪口(あっこう)、すなわち悪口(わるくち)について語ります。兄弟たち、悪口を言い合ってはなりません。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁いたりする者になってはいけません。どこの国の政治家も同じようです。対立候補の欠点をあげつらい悪口を言い合って非難するより、政策を掲げてこうすればもっと良くなりますよ補い合うように事柄を批判する議論の方が建設的です。国民の代表者である者たちが模範を示して欲しいものです。

興味深いのは、兄弟の悪口を言う事が律法の悪口を言うことになり、兄弟を裁くことが律法を裁くことになります。そして、もし律法を裁くなら、律法の実践者ではなくて、裁き手ですと言っていることです(ヤコブ四・一一)。つい悪口を言ってしまう時、律法の悪口を言っている、律法を裁いているなんて、そこまで思いません。

何故、律法の悪口を言い律法を裁くことになるのかと言いますと、律法を定め、裁きを行う方は、お一人だけです。この方が、救うことも滅ぼすこともお出来になるのです。隣人を裁くあなたは、一体何者なのですか(ヤコブ四・一二)。つい悪口を言ってしまうとき、自分が律法を定め、律法によって相手を裁く神になっているからだ、という訳です。神だけが律法の善し悪しを決め、神だけが人間を裁くことがお出来になる。

それで、そのようにして律法を裁いてはならない、むしろ律法の実践者になれと語ります。言い換えれば、お互いに悪口を言うのではなく愛し合いなさい、それが律法の望んでいることです。愛し合うことについて今日は思いを深めたい。

 

律法は、愛し合うようにと私たちに期待しています。でもそれが思うように出来ないのが私たちです。相手の悪口を言い相手を裁きます。神のようになって。悪口を口に出さなくても心の中で思います。心の中にあるから、悪口となって、あるいは噂話となって口から出てきます。そのような私たちは神様から裁かれるべき存在です。

まことに、主は我らを正しく裁かれる方。主は我らに法を与えられる方。ここまで読んで予測されることはこうです。法を与えられて法に従わない我らの姿が明らかになり、その結果、我らは裁かれる。こうなるのが当然の理屈であると思う所です。ところが続く御言葉はそうではない!

主は我らの王となって、我らを救われる(イザヤ三三・二二)。主が我らの王となられる。王だからこそ、主は我らの救い主にもなりたもう。我らを救われるのです。これが、私たちの通常の理屈と異なる、福音の愛の論理です。聖書が告げ知らせ、宗教改革者たちが再発見した福音の愛の論理です。

それはしかし、単なる理論上の論理ではありません。法の実践者として期待されているのは、神に愛されてこれに応答する私たち人間です。ところがこれを実践できない私たちである時、神ご自身が、実践者たる人間になって下さった。言うまでもない主イエス・キリストです。人としてこの地上に来られ、イエスは、私たちのために命を捨てて下さいました。そのことによって私たちは愛を知りました(Ⅰヨハネ三・一六)。我らの王となって我らを救う、実践に基づく論理です。

 

この神の実践を通して、私たちは愛を知りました。パウロは愛を次のように語りました。有名な愛の賛歌です。パウロがキリストから受け実践した愛、その愛の特色は、「しないこと」にあります。愛は寛容であり、愛は情深い。また、妬むことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てを耐える(Ⅰコリント一三・四~七、口語訳)。

愛の実践者になるのに大事な事は、しないことです。悪口を言いたくなった時、それを言わない。

通常、何か愛の業、善行を積むことが愛の実践に思えますが、パウロは「しないこと」、言い換えてパウロはこれを忍ぶこと、忍耐と言います。

先日、グリーフ・ケアの講義の中でこういう詩の紹介がありました。皆様にもご紹介したいと思います。「互いに愛し合うこと」という題です。

 

私の話を聞いて下さいと頼むと、あなたは助言を始めます。私はそんなことを望んでいないのです。

私の話を聞いて下さいと頼むと、あなたはその理由について話し始めます。申し訳ないと思いつつ、私は不愉快になってしまいます。

私の話を聞いて下さいと頼むと、あなたは何とかとして私の悩みを解決しなければという気持ちになります。おかしなことに、それは私の気持ちに反するのです。

祈ることに慰めを見出す人がいるのはそのためでしょうか。神は無言だからです。助言したり調整しようとはしません。神は聞くだけで、悩みの解決は私に任せてくれます。

だから、あなたもどうか、黙って私の話を聞いて下さい。話したかったら、私が話し終わるまで少しだけ待って下さい。そうすれば私は必ずあなたの話に耳を傾けます。

 

キリストの忍耐の愛は、悪口を言いません。悪口を言いたくなった時、それを言わない。相手の人間が悪くてもです。キリストの忍耐の愛は、相手を正そうとはしません。ご自分が正しいのにです。そして裁こうとはしません。解決を委ねます。ただ罪の裁きだけはご自分の十字架で全て背負い、神が愛であられることを無言の内にお示しになります。

 

 

祈り

御子を与える程に私たちを愛して下さる父なる神様。つい悪口を言ってしまう私たちを憐れんで下さい。

キリストは忍耐の愛を以て罪の裁きだけはご自分の十字架で全て背負い、神が愛であられることを無言の内にお示しになります。感謝します。キリストの忍耐の愛が、御言葉と共に私たちの内に豊かに宿るようにして下さい。つい悪口を言い合う私たちを憐れみ、弱さを補い合う私たちへとお導き下さい。私たちを、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神を愛しほめたたえる者とさせて下さい。また隣人を愛する律法を無言の内に実践する者とならせて下さいますように。

今日の大阪での住民投票、今週のアメリカでの大統領選挙、そこから新たに御心が現れていきますように。

これから聖餐の恵みに与ります。この恵みは、キリストの忍耐の愛の静けさの中に私たちを招きます。信仰の内に感謝を以て味わう者とさせて下さい。